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モーツァルトのパリ・ソナタにおいて、レントゲンの見たもの

ーーK.330~K.333が、「パリ・ソナタ」として位置付けされなかった所以ーー

聖徳大学人文学部音楽文化学科

教授 原 佳之

はじめに

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756~1791)のクラヴィーアソナタK.310~K.333の5曲は、モーツァルトの中期クラヴィーアソナタの傑作として親しまれている。これら5曲のソナタは、1778年春から秋にかけてのパリ滞在中に作曲されたとされ、長い間「パリ・ソナタ」としてアルフレート・アインシュタイン(Alfred Einstein 1880~1952)をはじめ、多くの学者たちにより、パリの社交界の栄華と関連づけられ、説明されてきた。筆者は、日本モーツァルト愛好会からの依頼による、モーツァルトのクラヴィーア・ソロ曲全曲(フラグメントを含む)演奏を行う以前から、この5曲のソナタをこよなく愛し、リサイタルでもたびたび取り上げてきた。しかし、5曲すべてをパリで書かれたものとするには、ピアニスティックな側面から見て、合点の行かないものを感じていた。

疑問を抱いていたのは筆者だけではなかった。20世紀後半になってモーツァルトの作品に科学の目があてられることとなったのである。ヴォルフガング・プラート(Wolfgang Plath 1926~)がまず、1970年代に作品の筆跡鑑定を実施した。さらに、1980年代になってアラン・タイソン(Alan Tyson 1926~)がX線を用い、原稿の透かし模様の研究をし、照合。そして五線紙の出所をさぐり、作品年代の再確認を行ったことは、我々の記憶に新しい。この功績をもとに1954年~1991年の間に『新モーツァルト全集』が編纂された。このことにより、数多くの作品が作曲年代について見直しを余儀なくされたのである。K.330~K.332の3曲は、1783年ウィーン、またはザルツブルクにて、K.333は1783年末頃、リンツ、またはザルツブルクにて作曲されたという結論に至った。これは、初版譜の出版が、K.330~K.332は1784年ウィーンのアルターリア(Artaria)より、K.333は1784年、ウィーンのトッリチェッラ(Torricella)から行われたことに無理なく符合する。したがって、パリで作曲されたのは、K.310のみとなった。そして、K.330~K.333の4曲は、説明の変更をせざるをえない事態になったというわけである。

今日、作曲年代については、すでに定説化してきてはいるが、本稿ではこれら4曲のソナタが「パリ・ソナタになりえなかった所以」を演奏家の立場から見て考察し、明らかにしたい。

 

研究課題

モーツァルトがパリに滞在したのは、わずか半年余りである。モーツァルトがパリに行くことになったきっかけは何であったのだろうか。モーツァルトのパリでの作風を知るには、パリに行くきっかけになった街を知り、その街でモーツァルトがどのような経験をしたかを知ることが必要であると判断した。モーツァルトは、パリに行く前にマンハイムに滞在した。この街には、モーツァルトを惹きつける魅力があった。当時マンハイムは、オーケストラに恵まれ、ギャラントな演奏スタイルが流行し、パリとともに西ヨーロッパの音楽活動の中心地とされていた。

ここで注目したいのは、オーケストラと楽器との出会いである。当地に就職を求めたモーツァルトは、オーケストラに関心を示した。そして、アウグスブルクでクラヴィーア製作者のヨハン・アンドレアス・シュタイン(Johann Andreas Stein 1728~1792)に会い、シュタイン製のハンマーフリューゲルを試演した。このクラヴィーアのダンパーは、従来型の膝で操作するレバーはなく、足で踏むペダルであった。ダイナミズムの表現の領域が拡がるシュタイン製のハンマーフリューゲルは、モーツァルトの演奏、および作曲の可能性を拡大し、イメージを拡げたと推測される。そこで2つのクラヴィーアソナタが誕生した。K.309(284b)とK.311(284c)である。

 

クラヴィーアソナタ第7番C-dur K.309 (284b)、第8番 D-dur K.311 (284c)

*成立年代:1777年10月~11月、マンハイムにて

*出版: [第7番] 1781年パリ、エーナ(Heina)より。 新全集Ⅸ-25/1

[第8番] 新全集Ⅸ-25/1

*楽曲構成:

[第7番]
Ⅰ.アレグロ・コン・スピーリト C-dur 4分の4拍子 ソナタ形式
Ⅱ.アンダンテ・ウン・ポコ・アダージョ F-dur 4分の3拍子 エピソードをはさむ変奏曲
Ⅲ.ロンドー アレグレット・グラツィオーソ C-dur 4分の2拍子 ロンド形式

[第8番]
Ⅰ.アレグロ・コン・スピーリト D-dur 4分の4拍子 ソナタ形式 
Ⅱ.アンダンテ・コン・エスプレッショーネ G-dur 4分の2拍子 ABABA
Ⅲ.ロンドー アレグロ D-dur 8分の6拍子 ロンド形式

 

この作品群の特徴は、オーケストラ的な楽想にある。同形反復が多く、それを重ね上げて発展させていく作曲技法は、マンハイム楽派の交響曲のスタイルである。K.309は、第1主題の冒頭(譜例1)をオーケストラ、3小節からはヴァイオリンとヴィオラ、15小節からはトランペットが動機を奏し、推移部のオーケストラへというように置き換えが可能である。

そして第2主題は再び弦楽器群、43小節からはオーケストラ、見方を変えれば、53小節にトリルがあることから、クラヴィーア協奏曲のスケッチということもできる。展開部は、オーケストラ、そして管楽器群へと f→p→pp と引き継がれていく。この作風は、ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven 1770~1827)を想起させる。作品を見ると、モーツァルトがいかに湧き出るような楽想を持っていたかがよくわかる。48~49小節の1拍ごとに繰り返される p/f の表示(譜例2)は、性能の良いハンマーフリューゲルに出会ったモーツァルトの強弱の表現ができる喜びを証明するものである。展開部に見る pp の表示は、モーツァルトのクラヴィーアソナタには珍しい。

我々ピアニストは、響きの良いホール、性能のいい楽器に出会った時、或いは良き共演者に恵まれた時、芸術的刺激を受ける。作曲家もまた、優秀なオーケストラや性能の良い楽器に出会った時、曲に対するイメージが拡がるのであろう。したがって、モーツァルトはマンハイムで優秀なオーケストラに、そしてシュタイン製のハンマーフリューゲルに出会ったことにより、響きやダイナミズム表現の可能性が著しく拡大したと言える。

K.311ではピアニスティックな面が一層強調され、特にスタッカートの軽やかさが要求されるようになっている。これは、当所でアフタータッチの面でも反応の早いハンマーフリューゲルに出会ったことを示すものである。

マンハイム・ソナタは、メロディーも覚えやすく、親しみやすいが、演奏者にとっては弾きにくいソナタである。モーツァルトは、マンハイムで新しい発見をし、溢れるばかりの楽想すべてを盛り込もうとしたのではないだろうか。まだ21歳の若さでは、いろいろな楽想を盛り込もうとするあまり、ペンが対応しきれなかったという見方ができる。そんなところから、演奏上の不自然さは否めない。例を挙げるなら、第1楽章56、57小節の16分音符の跳躍(K.309)(譜例3)、至る所に散見されるポジションが突然変わる(K.309、K.311)点にある。ここで特記しておきたいことは、ダイナミズムが拡がったにもかかわらず、マンハイム・ソナタでは、ff の表記はまだ出てこないことにある。

では、なぜモーツァルトはff の表記を控えたのであろうか。このことは、翌年パリで作曲されたK.310(300d)(譜例4)を見るとわかってくる。

 

クラヴィーアソナタ第9番 a-moll K.310 (300d)

*成立年代:1778年初夏、パリにて

*出版:新全集Ⅸ-25/1

*楽曲構成:

Ⅰ.アレグロ・マエストーソa-moll 4分の4拍子 ソナタ形式 
Ⅱ.アンダンテ・カンタービレF-dur 4分の3拍子 ソナタ形式 
Ⅲ.プレストa-moll 4分の2拍子 ロンド形式

このソナタが作曲されたのは、パリであると言われている。ウィーン古典派の音楽は、モーツァルトの交響曲《パリ》K.297(300a)の成功により、国際的に広がったといえるだろう。しかし、その後の彼を待ち受けていたのは、母マリア・アンナ・モーツァルト(Maria Anna Mozart 1720〜1778)の死であった。K.310は、アインシュタインによれば、「本当に悲劇的なソナタであり、劇的で、仮借ない暗黒に満ちている」(Einstein 1945:邦訳 336)と評されているところから、研究者たちに、しばしば同年7月3日の母の死と関連付けられ、説明されてきた。自筆譜にも、「1778年、パリ」との表記があるのみで、成立には、K.310と母の死との関りを裏付けるものはない。かといって否定できるものでもない。

筆者は、このソナタを母の死と関連があると推測する。モーツァルトの短調作品の特殊性を扱った文献は多く、その中でもこのソナタと、《ドン・ジョヴァンニ》K.527、《レクィエム》 K.626は特異な作品として位置付けされるのではないだろうか。K.310は「母の死」、《ドン・ジョヴァンニ》は「父の死」、《レクィエム》は「自分の死」と関連づけられる。3つの作品に共通するのはmollであることは言うまでもないが、K.310はa-mollという「劇的な」調性を、《ドン・ジョヴァンニ》と《レクィエム》はd-mollという「惜別の」調性を用いていることに注目したい。「母の死」或いは「父の死」といった各々の状況における心理が、それぞれの調性を選んだと考えると興味深い。

第1楽章展開部にff 表示がある(譜例5)。

ff は、4小節ごとに pp と交互に現れる。これは、モーツァルトには珍しい表示である。たびたびベートーヴェンとの連関が説明される、もう一つの短調クラヴィーアソナタK.457でさえ、ff は出てこない。K.310の展開部には、左手の拘束性のある執拗なバスに引きずられまいと、もがき続けるモーツァルトの「叫び」がある。不気味な場面を展開する部分である。この ff は、「主観性の直接表現」によるものである。したがって、モーツァルトのff 表示は、「特別な」ものであることがわかってくる。

第1楽章の速度表示に、アレグロ・マエストーソという「戒め的な」指示がある。これは、「叫び」を決して軽快に面白おかしく弾いて欲しくないという、モーツァルトからのメッセージであろう。前打音は、大粒の涙に聴こえる。第1楽章は大変シンフォニックである。また、126~127小節の突然のポジション移動を伴う十六分音符のパッサージュは、手法における「大胆さ」がある。この「大胆な手法」が、パッサージュを弾きにくくさせている。しかし、音楽は自然に流れており、聴き手に「弾きにくさ」を感じさせない。このようなシンフォニックな作風、大胆な手法は、マンハイム・ソナタの影響である。

さらに、このソナタには、対位法的な技法が随所に散見される。しかし、音楽に自然な流れがあるため、聴き手には、対位法音楽であることを悟らせない。親しかった人の死は、側近の者に時として超人的な力を与えることがある。一時的にせよ、モーツァルトが晩年に辿り着いた「対位法を駆使したポリフォニーの作曲家」になってしまったのだから、驚異としか言いようがない。

第2楽章アンダンテは、天上的な美しさを持つが、不気味さが漂う。Durであるが、本質はdurの仮面をつけた「moll」であると推測される。これは、母の死によって、溢れる涙が一杯こみあげてくる中で、哀しみをこらえ、それを乗り越えようとしているモーツァルトの心理を描写していると言ってもいいだろう。乗り越えようと神に祈ろうとするが、我々は、展開部で死後の世界を垣間見ることになる。それは、フランツ・シューベルト(Franz Peter Schubert 1797-1828)が描いたような「優しいもの」ではなく、地獄からの「叫び」であった。そして、第3楽章は、ジプシーの仮面を被った「葬送音楽」である。「葬送音楽」という点では、後のフレデリック・ショパン(Frédéric Chopin 1810〜1849)の、ソナタ第2番 b-moll Op.35のフィナーレを想起させるプレストである。

以上のような考察から、K.310は、「積極的に主観性を直接表現した作品」ということができよう。そういうところから、このソナタは、「母の死」と関連を持ち、モーツァルトの「特殊なクラヴィーアソナタ」として位置付けすることができる。

パリでは、病に倒れた母を目の前にし、就職もままならず、生徒をしぶしぶ教えながら生活した。4ヶ月後には母を亡くし、孤独と戦い、悲しみに打ちひしがれていたに違いない。ウィーンでは、皇帝、貴族、市民の3つの階級が近づきあって生活していたが、パリでは、それぞれが相反しあっていた。そのような社会構造からくるパリの人々の市民感情は、モーツァルトにとって、決して居心地のいいものではなかったであろう。事実、11年後には革命が勃発しているのだから。モーツァルトにとってパリの生活が不本意のものであったことは、母の死から3ヶ月後にパリを出ていることからも想像できる。そのような状況で、果たして中期モーツァルトの珠玉とも言える4曲の「パリ・ソナタ」を作曲できたのであろうか。しかも3ヶ月の間に。「パリ・ソナタ」と呼ばれる後の4曲が、もっと時を隔ててから作曲されたのではないかという私の疑問は、そんなところからはじまった。

 

クラヴィーアソナタ 第10番 C-dur K.330 (300h)

*成立年代:おそらく1783年、ウィーン、またはザルツブルクにて

*出版:1784年ウィーン、アルターリアより。新全集Ⅸ-25/2

*楽曲構成:

Ⅰ.アレグロ・モデラート C-dur 4分の2拍子 ソナタ形式 
Ⅱ.アンダンテ・カンタービレF-dur 4分の3拍子 三部形式 
Ⅲ.アレグレット C-dur 4分の2拍子 ソナタ形式

 

アインシュタインによれば、「モーツァルトはK.310を作曲した後、内面的な自由を求め、K.330を書いた」とある(Einstein 1945:邦訳 336)。彼は、K.330の第2主題の一部とK.310の第1主題との関連性を指摘(譜例6)し、「暗黒と明るみの間の主題的連関」と説明している。

さらに、「K.330はK.310に比べ軽いように見えるが、K.310同様、あらゆる音の坐りがよい傑作であり、かつてモーツァルトが書いた最も愛らしいものの一つ」と述べている(Einstein 1945:邦訳 336)。

内面的な自由を求めたことに対しての異論はないが、彼の発想は、あくまでK.310の直後にこのソナタを想定しているところに問題がある。筆者は、モーツァルトは母の死後、郷里のザルツブルクに帰り、このソナタを作曲したと仮定したい。フラグメントは現存しないが、ザルツブルクで草案を練った後、ウィーンで完成させたという可能性もある。22歳の若さで「母の死」を体験し、一人パリに残されたモーツァルトの心が、郷里に向かうのは当然のことではないだろうか。

そして、アインシュタインの言う「内面的な自由」とは、「モーツァルト本来の姿のことである」と分析する。モーツァルトの作品が生まれた本質的な土壌は、ザルツブルクにあると推測される。旧市街に見る市場の朝の盛況、馬車の軋み、レジデンツ広場の鐘の音、木の葉が風に擦れる音、ザルツァッハ川の流れ等、すべてがモーツァルトの音楽の素材となっている。K.330においても、第1楽章の第1主題(譜例7)からは、郵便馬車のラッパの音を想わせ、街の賑わいが伝わってくる。

街往く人々が挨拶をかわしながら市場におもむく様は、まさにザルツブルクそのものだ。第3楽章は、ブラスバンドを伴うチロル地方の民族的な踊りである。ヨーロッパでは、民族音楽がクラシックと同じ土壌で発達してきた。モーツァルトが幼少時代に聴き、慣れ親しんできたこのような音楽が作品の中に内在していても、おかしくはないだろう。

以上の要素から、このソナタをパリで作曲したと仮定するなら、あまりにもザルツブルク的であり、リアルすぎる。或いは、パリでのテーマの「ひらめき」はあったかもしれないが、それを持続させ、曲の完成に至らせるために必要な精神力はなかったと推測される。アインシュタインの言う、「音の坐りをよくする」(Einstein 1945:邦訳 336)条件を満たすためには、モーツァルトが、精神的に落ち着きを取り戻すことが前提となる。そのためには時間が必要であったと考える。

K.330におけるピアニスティックな動きは、マンハイム・ソナタのような突然のポジションの移動もなく、窮めて「自然」である。さらには、湧き出る楽想をすべて取り込もうとしたために起こる「弾きにくさ」や「不自然さ」は、姿を消している。第2楽章には、複雑な転調、予期せぬ短調部分の挿入という「繊細さ」と「大胆さ」が同居し、それらが互いに主張しながらハーモニーを醸し出すという作風がある。この発想はマンハイム時代に培われたものだが、当時は若さからくる非統一感があった。K.330においては、そのような非統一感は見られない。

 このソナタを、同じC-durで書かれているクラヴィーアソナタK.545と比較してみよう。モーツァルトは、K.545を作曲した頃、父レオポルドをはじめ、親しい友人の相次ぐ死に見まわれていた。「死」と「C-dur」との連関から考えると、K.545の方は、C-durというシンプルな調性に自分自身の苦悩を投影し、浄化させていったという作風がある。したがって、曲に内在するものは、決してdurではないと言うことができる。それに対しK.330は、「ザルツブルクへの回帰」がテーマであり、我々には、ザルツブルクの街そのものの雰囲気が伝わってくる。いわば、「C-dur」と「ザルツブルク」の中に「母の死」を押し込めてしまったという見方もできる。モーツァルトの手紙でも見られるように、「本当に言いたかったことをユーモアの中に隠してしまう」という語法から考えれば、K.330は、「母の死」と関係があるソナタということができる。しかし、一般的に、身内の死からこのような立ち直りのできる状況は、その死から1年以上たってからであると考えられる。したがってK.330は、母の死から少なくとも1年以上の歳月がたってから作曲されたと考えるのが妥当であろう。

 

クラヴィーアソナタ第11番 A-dur K.331 (300i)

*成立年代:おそらく1783年、ウィーン、またはザルツブルクにて

*出版:1784年ウィーン、アルターリアより。新全集Ⅸ-25/2

*楽曲構成:

Ⅰ.アンダンテ・グラツィオーソA-dur 8分の6拍子 変奏曲形式 
Ⅱ.メヌエットA-dur 4分の3拍子 複合三部形式 
Ⅲ.アラ・トゥルカ アレグレット a-moll 4分の2拍子 複合三部形式

 

第1楽章(譜例8)はシチリアーナのリズムで開始する。

モーツァルトは、クラヴィーアの作品で最初にシチリアーナのリズムを用いたのは《ロンドン・スケッチ帳》の中に見られる([シチリアーナ]K6.15u)。その後のクラヴィーア曲では、ソナタ第2番 F-dur K.280第2楽章と、クラヴィーア協奏曲第23番 A-dur K.488第2楽章にシチリアーナが出現する。シチリアーナのリズムがdurで使われるのはK.331だけであり、他はmollである。そんなところから見て、シチリアーナは、モーツァルトがよく使ったリズムとは言い難い。十字軍の遠征の時、追われた僧侶が歌ったと言う謂れをもつシチリアーナは、ある種の陰鬱な心理に襲われた時、使ったリズムと言えないだろうか。

アインシュタインらの「パリ・ソナタ」という考えを踏襲するなら、K.331の第1楽章主題もまた、陰鬱な心理という観点から、「母の死」と関連づければ説明できなくはない。しかし、K.310のような「悲劇的、仮借ない暗黒なもの」は、このソナタには存在しない。K.331の一見陰鬱な主題は、バリエーションの形を借りて発展し、短調変奏、アダージョをはさみ、アレグロで終わるという「モーツァルトの変奏曲のスタイル」を形成する。伴奏型に見る同形反復は、単なる響きを厚くし、メロディーを引き立たせる為の伴奏にとどまらない。そして、随所にバスの保持音が現れ、メロディーの表出を色彩付けるのに効果を上げている。これらは、左手の動きに意味をもたせる試みが始まったということができる。この試みは、モーツァルトが「ポリフォニーの作曲家」へと推移していく過程と見ていいだろう。

K.331におけるもう一つの着眼点は、三度、六度、オクターヴの動きが散見されるところにある。例を挙げるなら、第1楽章:第3変奏5~6小節(譜例9)、第4変奏、第2楽章:トリオ49~62小節(譜例10)等。


モーツァルトは、1781年12月24日、ヨーゼフⅡ世(Joseph II 1741-1790)の前でムーツィオ・クレメンティ(Muzio Clementi 1752-1832)と即興による競演を行った。クレメンティに関する記述を手紙で追ってみよう。

 

手紙①

「さて、クレメンティについて。ーーこの人は律儀なチェンバロ奏者です。ーーでもそれだけのことです。——右手が非常に巧みに動きます。ーー彼のみせどころは、三度のパッサージュです。ーーその他の点では、趣味も感情もまったくありませんし、たんに機械的に弾くだけです。」モーツァルトの手紙:1782年1月16日付、レオポルド宛(Bauer-Deutsch 1962-1963:邦訳Ⅴ-202)

 

手紙②

「さて、クレメンティのソナタのことで、お姉さんに少し話したいことがあります。——あの作品にはなんの意味もないことを、演奏する人も、聴く人も、自分で感じるでしょう。——六度とオクターヴのほかには、特に顕著だとか、注目すべきパッサージュは何ひとつありません。」モーツァルトの手紙:1783年6月7日付、レオポルド宛(Bauer-Deutsch 1962-1963:邦訳Ⅴ-376)

 

手紙からも解るように、モーツァルトはクレメンティを「単なる機械屋」と軽蔑し、酷評しているが、三度と六度、オクターヴについては、一応興味を示している。モーツァルトがクレメンティを、暫くの間、何らかの形で意識していたことは、1年半の歳月が経過した後の手紙②や、最晩年のオペラ《魔笛》K.620序曲主題に見られるクレメンティのB-durソナタとの類似により(譜例11)、明らかである。

モーツァルトは、1783/84年、ウィーンでG.パイジェッロ(Giovanni Paisiello 1740-1816)のオペラの主題を用いて《哲学者気取り、または星占いたち I filosofi immaginarii, ossia Gli astrologhi》の《主よ、幸いあれSalve tu, Domine》による6つの変奏曲F-dur K.398(416e)を書いている(譜例12)。

このテーマもまた、三度、六度が続く。「哲学者」という名のもとに、モーツァルトがクレメンティを痛烈に風刺した作品ということができよう。K.331においても、「機械屋」クレメンティとは違い、叙情的な部分で、クレメンティの得意とする三度、六度を用いた点では、完璧な挑戦状である。或いは、自分がクレメンティより優位にあることを「劇画化」したのかもしれない。この三度、六度、オクターヴの導入は、クレメンティとの競演後のものであることが判明した。したがって、クラヴィーアソナタ A-dur K.331は、クレメンティとの競演後、すなわち1781年冬以降にウィーンで書かれたと推測できる。

このソナタをウィーンの作品とするためのもう一つの裏付けは、「トルコ風」な作風にある。当時のヨーロッパ人は、オスマン・トルコとある程度の緊張関係を持っていた。モーツァルトは、ジングシュピール《後宮からの誘拐》序曲K.384によって、トルコの珍しい軍楽隊の響きや、トルコの要素を模倣し、自分の音楽と融合させたことは言うまでもない。オスマン・トルコは、ウィーン郊外のカーレンベルク山の麓まで侵攻してきた。情報交換の得意な、噂好きのウィーン人は、オスマン・トルコは確かに強いが、礼儀作法をわきまえない狡猾な人種であることを知っていた。強いから故、興味がある、覗いて見たいという心理が、トルコの音楽の流行を生み、トルコを舞台とした《後宮からの誘拐》をウィーンで大成功させたのだと筆者は分析する。筆者はK.331の《アラ・トゥルカ》と書かれた第3楽章は、オスマン・トルコ人や、戦争そのものを描写したのではなく、彼等に対する強烈な「風刺」であると解釈する。モーツァルトは、ウィーン人の感情に訴える為、演奏会の多かったウィーン時代初期、すなわち1782~1783年頃、自身の演奏会レパートリーのために作曲したと結論づけたい。

 

クラヴィーアソナタ第12番 F-dur K.332 (300k)

*成立年代:おそらく1783年、ウィーン、またはザルツブルクにて

*出版:1784年ウィーン、アルターリアより。新全集Ⅸ-25/2

*楽曲構成:

Ⅰ.アレグロ F-dur 4分の3拍子 ソナタ形式
Ⅱ.アダージョ B-dur 4分の4拍子 二部形式
Ⅲ.アレグロ・アッサイ F-dur 8分の6拍子 ソナタ形式

 

アインシュタインは、このソナタの空中から掴み取られたように開始する第1楽章の第1主題(譜例13)の魅力や、ひらめきがひらめきを呼ぶ作風を、「自然性」「必然性」「自立的生長」と分析し、「モーツァルトの最も個人的な作品の一つ」と結論づけている(Einstein 1945:邦訳202〜204、337)。

開始部のフレーズが大きいこと、天からの声のように、どこからともなく音楽が開始する作風は、特筆すべきである。そして、導入部においてのこの技法は、後のベートーヴェンのクラヴィーアソナタ Op.31-3、Op.101、Op.109、ショパンのバラード第2番 Op.38、第3番 Op.47、第4番 Op.52等に影響を及ぼしていくのである。モーツァルトは、K.332において、今までにない新しい技法で、曲の開始部を作曲するという境地に立ったのである。この作風は、何から受け継いだものであろう。それは、ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)からであると推測する。例を挙げるなら平均律Ⅰ-4、8、16、22、23、Ⅱ-19、21等の、プレリュードの導入の仕方である。

Mollに突然転調する推移、スタッカート表示でありながらエスプレッシーヴォを要求される第2主題、まるで恋人同士の語らいのような展開部、どれをとってもモーツァルトのひらめきは尽きるところを知らない。しかもそれらの「ひらめき」は、メヌエットのリズムに乗り、そこに蓄積されたエネルギーは、さらに激しい音楽を創造するエネルギーへと変化する。そのエネルギーもまた「自然さ」というベールで覆い尽くされるのである。

マンハイム・ソナタでは、まだ「効果」よりもシュタイン製のハンマーフリューゲルとの出会いによる「強弱を表現できる喜び」が前面に出ていたが、このソナタにおいては、ダイナミズム表現は、「含み」をもたせる表現にと変わっている。我々はそこに、マンハイム・パリ時代より成長したモーツァルトを見出す。例えば、22小節、表示はないが39小節 、55小節、さらには60~65小節、そして84小節、90小節の f は、すべてニュアンスが異なる。p 表示についても、第1主題、第2主題、展開部とニュアンスは違う。ここで注目したいのは、60~65小節である(譜例14)。

60〜64小節の f は p に比して強く、音楽は自然にクレッシェンドがかかるところから、65小節の f は、ダイナミズムの頂点を示し、続く p は、60~65小節までのフレーズを受けた p である。さらに、小さいフレーズの組を考えると、60~66小節は4+3となり、64小節1拍目の f は、少し控え目に演奏すべきであろう。

もう一つの着眼点は、このソナタでも、叙情的な部分での三度、オクターヴの表現が目立つことである。これらも、クレメンティの意識によるものだろうか。第1、2楽章には、マンハイム・ソナタに見られた、「繊細なもの」と「大胆なもの」との非統一感は、見当たらない。演奏上も、窮めて「自然な」感性を要求される。この曲がパリで作曲されたと仮定するなら、曲を支配するフレーズの大きい「自然な流れ」は、マンハイム以降、わずか1年の間に身につくものであろうかという疑問が浮かぶ。K.310におけるような「奇跡」は、何回も起こらない。K.332の冒頭部の作風がセバスチャン・バッハからの影響によるものとするなら、成立年代は、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵家(Gottfried van Swieten 1733-1803)でのバッハ体験以降、すなわち1782年以降ということになる。

ただし筆者は、第3楽章に対してだけは異論がある。シャンペンの泡のように十六分音符が下降し、また上昇線を描いていくラインは、窮めて自然であるが、ポジションが突然変わること、シンフォニックな響き、そして「弾きにくい」という点から、マンハイムの名残を感じざるを得ないことが指摘できる。K.330〜333に関しては、成立年代を匂わせるような有力な手紙もなく、想像の域でしかないが、筆者は、まず第3楽章だけを「ソナタ楽章」としてマンハイムで作曲、第1、2楽章を1782年以降ウィーンで作曲し、あらかじめ作っておいた、あるいは記憶に残しておいた第3楽章を付け、1784年アルターリアから出版したという見解に至った。

まだ成立年代が確立されていないK.330~K.332までの3つのクラヴィーアソナタは、筆者のピアニストとしての観点から見ても、パリ時代のソナタではないという根拠があった。では、規模が大きいクラヴィーアソナタ B-dur K.333(315c)はどうだろう。

 

クラヴィーアソナタ第13番 B-dur K.333 (315c)

*成立年代:おそらく1783年末、リンツ、またはザルツブルクにて

*出版:1784年ウィーン、トッリチェッラより。新全集Ⅸ-25/2

*楽曲構成:

Ⅰ.アレグロ B-dur 4分の4拍子 ソナタ形式 
Ⅱ.アンダンテ・カンタービレ Es-dur 4分の3拍子 ソナタ形式 
Ⅲ.アレグレット・グラツィオーソ B-dur 4分の4拍子 ソナタ・ロンド形式

 

第1楽章の第1主題を見てみよう(譜例15)。

アウフタクトであるから、強拍は、当然次の小節の頭に来る。しかし、前打音があることにより、強調したい音は前打音に移動する。ところが、1小節目にも倚音がある。モーツァルトの作品には、アウフタクトが多い。このソナタの導入では、前打音、倚音と連続することから、モーツァルトがデリケートな表現を要求していることがわかる。第1主題の動機は、出現するたびに前打音の形で忠実に再現される。演奏家は、さりげないところにテーマのニュアンスを引き立たせる鍵が潜んでいるため、前打音の表記であれば、聴き手に前打音と聴こえるように弾かねばならない。第1主題の動機は、しばしば十六分音符の途中にも出現する。箇所によっては、前打音の形で記譜されていない場合もある。これは、前打音と区別させるための記譜であろう。この記譜は、晩年の作品に見られる、主題の動機を十六分音符の中に「隠す」という手法に繋がらないだろうか。主題を十六分音符の中に「隠す」手法は、しばしばセバスチャン・バッハが行うやり方であった。

さらに、50小節から、左手に半音階が現れることに注目したい(譜例16)。

曲が発展する途中で突然出現する半音階、これはモーツァルトの深層心理の描写であると推測する。半音階は、「痛み」を表現すると仮定しよう。第1楽章では左手にしか出てこなかった半音階が、第2楽章では右手に出現する(53、54小節)。楽譜をよく見ると、展開部の開始部分(譜例17)にも、F→fis→Gという半音階がある。

その後、左手にベートーヴェンの交響曲第5番《運命》Op.67を想起させるようなFの連打がある。この連打は2回繰り返され、FisをへてGの連打と続き、Bまで半音階で上っていく。曲は43小節からAs-durに転じ、現実に戻る。展開部で見た左手の連打を含む半音階的上昇は、母の亡霊ではないだろうか。このように考えた場合、そこにある半音階は、「痛み」の表現であると推定できる。

 半音階が散見されるところから、K.333は、一見明るく堂々とした作風の中に、モーツァルトの精神的な苦悩が埋め込まれているソナタであると言うことができる。この曲は規模も大きく、厳格な形式のもとに作曲され、完成度の高いソナタである。そこには、人々の喜び、哀しみが盛り込まれ、親しみやすく、皇帝、貴族、市民といった階層を乗り越え、音楽的な素養があってもなくても、楽しみ、理解することができる世界が広がっていた。このことは、予約演奏会の為の、クラヴィーア協奏曲を作曲した時に書いた手紙に一致する。

 

手紙③

-die Concerten sind eben das Mittelding zwischen zu schwer, und zu leicht- sind sehr Brillant- angenehm in die ohren- Natürlich, ohne in das leere zu fallen- hie und da- können auch kenner allein satisfaction erhalten- doch so- dass die nicht- kenner damit zufrieden seyn müssen, ohne zu wissen warum.

 

「これらの協奏曲は難しすぎず、また易しすぎず、ちょうどその中間的な存在です。——とても輝いていて——耳に心地よく——自然で、空虚なところがありません。——あちこちに——音楽通の人に満足させるようなパッサージュがありますが、——けれども——音楽に通じていない人でも、なぜか満足せずにはいられないように書かれています。」モーツァルトの手紙、1782年12月28日付、レオポルド宛(Hildesheimer 1975 : 128 訳は筆者による)

 

手紙③は、モーツァルトの音楽に対する本質的なものを記述していると見ていいだろう。K.333は、さらに、聴くものにとって「厳格なソナタ形式」をも感じさせないものとなっている。「厳格な形式を隠すもの」は、モーツァルトの「自然性」である。その「自然性」こそ、「モーツァルト独自のもの」と言っていいだろう。このような「自然性の確立」という側面から見て、K.333をパリ時代の作品として位置付けるには無理がある。また、ヨゼフ・ハイドン(Joseph Haydn 1732-1809)がオラトリオ《四季》において完成した、「厳格な形式を感じさせない手法」を学んだと仮定するなら、K.333が「ウィーンのもの」となる年代は、おのずとわかってくる。このソナタは、モーツァルトの生活環境から見て、ウィーンにて、或いは、「規模の大きさ」という面での交響曲《リンツ》K.425との共通性から、リンツで作曲されたと考えるのが自然である。

第3楽章はカデンツを持ち、明らかにクラヴィーア協奏曲を彷彿させる。ロンド形式でカデンツを持つことでは、マンハイム・ソナタK.311のロンド楽章と共通性がある。K.311とK.333が明らかに違う点は、提示部において、K.333では、8小節間クラヴィーア・ソロ、9小節目からオーケストラという、モーツァルトのクラヴィーア協奏曲におけるフィナーレのスタイルが確立したところにある。突然のポジションの移動もなく、マンハイム・ソナタのような「弾きにくさ」もない。K.333は、第3楽章がピアニスティックな楽章であるところから、モーツァルトが、自身のコンサートのレパートリーを増やす為に作曲したということもできよう。ウィーンで演奏会が多かった時期、そして、「バッハ体験」という双方から見て、筆者は、1782~1783年の間に作曲されたとする結論に至った。

 

おわりに

我々は、マンハイム時代の作品から、多伎なものを取り入れようとするあまり、「不自然なもの」を見出した。パリで作曲されたK.310は、マンハイムで優秀なオーケストラに出会ったところからくるシンフォニックな作風は踏襲されてはいるものの、「母の死」という特殊な環境が作り上げたものということが判明した。モーツァルトの「パリ時代」は、「母の死」が精神面に及ぼした影響が大きい。筆者は、その特殊な状況で、K.330~K.333の4曲が作曲されたと考えるのは、精神的、体力的な側面から難しいという結論を持った。さらには、マンハイムの作品に見られる「不自然さ」「弾きにくさ」は姿を消し、一見「ホモフォニーの作曲家」としての要素が強く打ち出されている。しかし、その中に、ヴァン・スヴィーテン男爵家で体験した「バッハ的なもの」の存在を筆者は見た。K.331については、トルコ風の作風をとったこと、クレメンティとの競演以降としか考えられない三度、六度、オクターヴの叙情的な部分における「風刺的な」挿入という、「ウィーンのもの」を明らかにさせる要素も判明した。

ピアニストにとって楽曲の成立年代を知る事は、作曲家の哲学観、人生観、宗教観、およびその時代的背景を考える上で必要不可欠なことである。もともと演奏家には、感性があり、その「ひらめき」において、既存の作品の成立年代に疑問を抱くことがある。そこで我々は、作曲技法、作風において、同時代の他の作品とを比較研究することによって成立年代の仮定を行う。さらに、その仮定を結論に至らせるため、哲学観、人生観、宗教観、時代的背景等を考慮する。しかし、K.330~K.333までの4曲のクラヴィーアソナタにおいては、現在もなお、成立年代が確定していない。今までの経緯から、学者たちが成立年代を結論づけても、もう一つ、裏付けがなかった。そういうところでは、プラートと、タイソンの功績は窮めて大きいものである。

考察の結果、K.330~K.333までの4曲のクラヴィーアソナタを「パリのもの」とするには、不自然さが否めなかった。しかし、ケッヘルが掲示した年代配列をもとに、アインシュタインらが、長い間「パリのもの」としていた理由は何だろう。彼等は、母の死後わずか3ヶ月の間に完成した中期モーツァルトの秀作を、「連作」として考え、「天才だからできる技」として結論づけたのであろうか。それとも、「不自然な成立年代」と疑問を持ちつつ、後世の研究者のために、課題を投げかけたのであろうか。この問いに対しては、議論の余地がある。おそらく、永久の議論の対象となっていくだろう。

 

[作品番号表記]

ケッヘル番号(Köchel)は、ケッヘルの『モーツァルト全作品主題目録』初版(1862年)の番号をK.と記し、最新版(第6版1964年)で番号に異同があった場合には、それを( )内に示した。第6版番号しかない作品については、K6.と記した。

参考文献

・Köchel, L.Ritter von. Chronologisch-thematisches Verzeichnis sämtlicher Tonwerke Wolfgang Amadé Mozarts, nebst Angabe der verlorengegangenen, angefangenen, von fremder Hand bearbeiteten, zweifelhaften und unterschobenen Kompositionen. Achte, unveränderte Auflage. Breitkopf & Härtel,Wiesbaden, 1983

・Mozart, W.A. Eigenhändiges Werkverzeichnis Faksimile, British Library Stefan Zweig

MS 63, Einführung und Übertragung von Albi Rosenthal und Alan Tyson, Bärenreiter, 1991

・Mozart,W.A. Kritische Bericht, Serie Ⅸ Werkgruppe 25 Klaviersonaten Band 1 und 2,Wolfgang Plath und Wolfgang Rehm, vorgelegt von Wolfgang Rehm, Bärenteiter,   1998

・Hildesheimer, Wolfgang. Mozart Briefe, Neu ausgewählt, Insel Verlag Frankfurt am Main, 1975

・Bauer, A. Wilhelm und Deutsch Erich Otto. Mozart. Briefe und Aufzeichnungen,

Gesamtausgabe (Ⅰ-Ⅳ), herausgegeben von der Internationalen Stiftung Mozarteum Salzburg, Bärenteiter, 1962-1963 〔海老澤敏、高橋英郎編訳 『モーツァルト書簡全集』全6巻 東京:白水社1976~〕

・Deutsch, Otto Erich und Eibl, Joseph Heinz. Mozart. Documente seines Lebens,

Kassel-Basel-London, München: Bärenreiter-Verlag, Deutscher Taschenbuch Verlag, 1981 〔井本晌二訳 『ドキュメンタリーモーツァルトの生涯』 東京:シンフォニア1989〕

・Einstein, Alfred. Mozart. His Character, His Work, New York, Oxford University Press, 1945 〔浅井真男訳 『モーツァルト その人間と作品』 東京:白水社1997〕

・Gay, Peter. Mozart. New York, Penguin Putnam Inc,1999 〔高橋百合子訳 『モーツァルト』 東京:岩波書店2002〕

・Landon, H.C.Robins. The Mozart Compendium, London ,Thames and Hudson Ltd, 1990 〔海老澤敏日本語版監修:『モーツァルト大事典』 東京:平凡社1996〕

・海老澤敏: 『新モーツァルト考』 東京:日本放送出版協会1992

・海老澤敏、吉田泰輔監修:  『モーツァルト事典』 東京:東京書籍1991

・海老澤敏先生古希記念論文集編集委員会編:『モーツァルティーナ——海老澤敏先生古希記念論文集——』 東京:東京書籍 2001 

・柴田治三郎編訳: 『モーツァルトの手紙 (上・下)』 東京:岩波文庫1980

・吉田秀和、高橋英郎編: 『モーツァルト頌』 東京:白水社1995

 

楽 譜

・Bach, J.S. Das Wohltemperierte Klavier: BandⅠ,Ⅱ, Wiener Urtext Edition,1983

・Bach, J.S. Inventionen und Sinphonien, Wiener Urtext Edition,1973

・Mozart, W.A. Klaviersonaten: BandⅠ,Ⅱ, Wiener Urtext Edition,1973

・Mozart, W.A. Neue Ausgabe Sämtlicher Werke, Bärenreiter,1954-1991

初出:『音楽文化研究』第3号(聖徳大学人文学部音楽文化研究会、2003)


関連ページ:

・教員紹介:原 佳之
・論文誌『音楽文化研究』


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2008.07.24

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