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フーガがモーツァルトの後期クラヴィーアソナタに与えた影響 

聖徳大学人文学部音楽文化学科

教授 原 佳之

 

はじめに

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の晩年に作曲されたクラヴィーアソナタには、対位法書法が多く使われている。筆者は1992年から1997年までの間、日本モーツァルト愛好会の依頼によりモーツァルトのフラグメントを含むクラヴィーア・ソロ曲全曲をリサイタルにおいて演奏し、その作品の分析、演奏法について研究してきた。後期クラヴィーアソナタの「複雑にさせているもの」に興味があった筆者は、長い間それに注目してきた。晩年のモーツァルトが作曲家として成功する一方、父の死や財政難にみまわれたことが音楽の襞となって作品に現れているという定説は、疑う余地がない。全曲演奏をすることによって、晩年のクラヴィーアソナタは、さらにフーガとのかかわりが大きいことを再発見した。なぜ、モーツァルトはフーガに魅せられたのであろうか。対位法書法を取り入れるにあたってのきっかけは何か。よく言われるように、ヴァン・スヴィーテン男爵の館でのバッハ体験によるところが大きいのだろうか。

「ホモフォニーの作曲家」としてスタートしたモーツァルトは、イタリア・ボローニャでジャンバッティスタ・マルティーニ神父(Giambattista Padre Martini 1706-1784)に音楽理論を学んだ。さらにウィーンにおけるゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(Gottfried van Swieten 1733-1803)の館でフーガに魅せられ、対位法を駆使する「ポリフォニーの作曲家」へと推移した。本稿では、フーガが彼の作品にどうかかわっていったかを認識し、それによってどのような集大成を遂げたかを、クラヴィーアソナタを中心に考察する。

 

研究内容

モーツァルトがフーガの影響を受けたとされるヴァン・スヴィーテン男爵は、膨大なバロック音楽のコレクションを誇る人物だった。彼は、1770年から1777年まで駐プロイセン大使としてベルリンに滞在した。そして、フリードリヒ大王(Friedlich?, K?nig von Preussen 1712-1786)と交友関係があり、大王に仕えていたカール・フィリップ・エマニュエル・バッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-1788)にも面識があった。ヴァン・スヴィーテン男爵が、ヴェンツェル・アントン・カウニッツ=リートヴェルク伯爵(Wenzel Anton Kaunitz-Rietberg 1711-1794)にあてた文書(1774年7月26日付)を読むと、ヴァン・スヴィーテン男爵が、ヨハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の作品を当地で知ったことがわかる。彼はエマニュエル・バッハを訪れ、セバスチャン・バッハの作品を購入した。そして、『フーガの技法』、『インヴェンションとシンフォニア』、『平均律クラヴィーア曲集』、『フランス組曲』、『イギリス組曲』、『パルティータ』、『音楽の捧げもの』、『オルガンのための前奏曲とフーガ』等の印刷譜や写譜をウィーンに持ち帰った。1782年からヴァン・スヴィーテン男爵の館では、毎週日曜日に「音楽協会」(「ウィーン楽友協会」の前身)という集まりがあり、コンサートが催された。そこに、モーツァルトは招待された。「音楽協会」では『平均律クラヴィーア曲集』をはじめとするセバスチャン・バッハの作品の他に、ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルGeorg Friedrich Händel 1685-1759)の作品も演奏された。当時ウィーンでは、トルコの音楽が氾濫し、モーツァルトの作品では、トルコを舞台としたジングシュピール『後宮からの誘拐』K.384が成功する一方で、対位法の勉強がはじまった。それを裏付ける手紙がある。

 

手紙 (1)「ところで、お願いしようと思っていたのですが、ロンドーを返してくださる時、ヘンデルの6つのフーガと、エーベルリーン(Johann Ernst Eberlin 1702-1762)のトッカータとフーガも一緒に送ってください。——ぼくは、毎日曜日、12時にヴァン・スヴィーデン男爵のところに行きます。——そこでは、ヘンデルとバッハ以外は何も演奏されません。——ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。セバスチャンの作品だけでなく、エマニュエルやフリーデマン・バッハ(Wilhelm Friedemann Bach 1710-1784)のも含めてです。——それからヘンデルのも。そして、・・だけが欠けています。——男爵にはエーベルリーンの作品を聴かせてあげたいのです。——イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですね?——音楽界にとってなんという損失でしょう!」(モーツァルトの手紙、1782年4月10日付、レオポルド宛)

手紙 (2)「エマニュエル・バッハのフーガ(6曲あると思います)を写譜して、いつか送ってもらえると、とてもありがたいのですが。——ザルツブルグでこれをお願いするのを忘れてしまったのです。」(モーツァルトの手紙、1783年12月24日付、レオポルド宛)

 

手紙 (1)は、4人のバッハが登場する珍しい文書である。幼少期より敬愛していたヨハン・クリスチャン・バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782)が他界し、モーツァルトの関心は、エマニュエル・バッハとセバスチャン・バッハに向かっていく。手紙 (2)は、エマニュエルへの関心を示すものであり、内容から、ヨハン・ゲオルク・レオポルド・モーツァルト(Johann Georg Leopold Mozart 1719-1787)のもとには、ヘンデルやエマニュエル・バッハのフーガの楽譜があったことが証明される。しかし、レオポルドがその楽譜をモーツァルトの幼少期に手に入れたのか、モーツァルトがフーガに関心をもつようになってから手に入れたのかは定かではない。

モーツァルトは、とりわけセバスチャン・バッハの作品を研究し、フーガを模倣した。そこで生まれた作品は、前奏曲(幻想曲)とフーガ C-dur K.394 (383a) (譜例1)である。この曲が「バッハの模倣」といわれる所以は、どんなところにあるのだろう?

 

前奏曲(幻想曲)とフーガ C-dur K.394 (383a)

*作曲年代:1782年4月、ウィーンにて

元来前奏曲の役割は、楽器(クラヴィーア)の響き具合、鍵盤の状態、調律の具合、和音やユニゾン等の音色等を、次にくるフーガ、ソナタ等の演奏の前に試すため、もう1つは、次の曲への導入であった。当時の前奏曲の性格は、構築性よりも即興性が重んじられた。しかし、K.394の前奏曲のフレーズは、ブロックごとに意味をなし、構築性に優れ、豊かな楽想にささえられているという点で、今までの前奏曲の域を脱しているといえる。この作品の即興性では、セバスチャン・バッハの幾つかの『オルガンのための前奏曲とフーガ』、『半音階的前奏曲とフーガ』を想起させる。冒頭の右手と左手がユニゾンで荘重にはじまる作風は、幻想曲 c-moll K.475を予期させ、オルガン的である。楽想からは「ホモフォニーの作曲家」としてスタートしたモーツァルトが、「ポリフォニーの作曲家」に推移しようとする意気込みを感じるのである。アンダンテの左手に現れる付点音符(譜例2)は、バロックの奏法に習い、右手の三連符と同じリズムで演奏するべきである。

本来付点音符は、自由な即興の発想のもとに演奏されるべきリズムである。三連符と付点音符が同時に使われるのは、セバスチャン・バッハがよく用いた記譜法である。例:パルティータ第1番クーラント(譜例3)。

さらに、左手のオクターブを用いたバスの三連符(譜例4)からも、この曲がオルガンのための作品であるということが推測される。

モーツァルトは、クラヴィーアソナタにおける記譜の中で、f で演奏してほしい時によくオクターブを使った。例:クラヴィーアソナタ F dur K.332 第1楽章(譜例5)。

しかし、K.394における左手のオクターブは、生まれてくる響きの豊かさにおいて、この域をはるかに越えている。導入部の響きの豊かさ、即興が多いことも含め、この曲がオルガンを想定して作曲したのではないかという根拠になる。

次に、フーガ(譜例6)において、楽曲をなす要素がいかにセバスチャン・バッハと共通点があるかを挙げ、具体的な例がある場合は、セバスチャン・バッハのインヴェンションとシンフォニア、平均律クラヴィーア曲集から探し出してみた。

 

1.     フレーズが解決音までとなっていること

2.     シンコペーションの音型が多く、シンコペーションをなしている音が楽曲の構造上重要な動きとなっていること

3.     色彩豊かな経過的転調

4.     転調した場面において、テーマの音色、弾き方が変わっていくこと

5.     カンタータ的な16分音符→平均律 II−14フーガ等

6.     ロングトーンが多く、ロングトーンがなすハーモニーの中で16分音符がレガートに流れるという楽想→インヴェンション2声−1、平均律I−7、23、II−9プレリュード等

7.     16+16+8+8+8分音符の音型→インヴェンション2声−5、3声−3、8、平均律I−2フーガ等

8.     半音階的な動き→平均律I−24フーガ等

9.     C-durという調性→インヴェンション2声−1、3声−1、平均律 I−1、II−1

 

以上の点から、前奏曲(幻想曲)とフーガK.394は、まさにセバスチャン・バッハを模倣した作品と言うことができよう。モーツァルトはこのK.394を作曲した頃、幾つかのフーガの断片を書いている。それは、ヴァン・スヴィーテン男爵の館で演奏された楽譜が自宅になかった時、コンスタンツェ・モーツァルト(Constanze Mozart 1762-1842)のために苦肉の策として作曲したもの、或いは新しいフーガを書くための下書きにしたもの、勉強の教材として使ったと思われるものがある。K.394の完成にあたって、モーツァルトは手紙にこう述べている。

 

手紙 (3)「あまり速く弾かれないように、ぼくは(フーガに)きちんとアンダンテ・マエストーソと指示しました。なぜならフーガはゆっくり弾かないと入ってくる主題が明瞭に聴き取れないし、そうすると面白味がなくなってしまうからです。」(モーツァルトの手紙、1782年4月20日付、ナンネル宛)

 

そして、この手紙からは、モーツァルトが前奏曲(幻想曲)とフーガK.394にいかに力を入れていたかを窺い知ることができる。

ここまでの過程では、モーツァルトがヴァン・スヴィーテン男爵との出会いにより、セバスチャン・バッハを研究したことが明らかにされた。では、モーツァルトは対位法をヴァン・スヴィーテン男爵家で初めて知ったのであろうか?この問いに対しては疑問を抱かずにはいられない。なぜなら、モーツァルトの父親レオポルドは、バロック時代を生きた音楽家であり、モーツァルトは幼少時代に父から教育を受けた。その内容に「対位法」が含まれていたと考えるのが妥当であろう。その上、当時の教会音楽は、対位法の音楽が踏襲されていたのである。カトリックの敬虔な信者であるモーツァルトが、その音楽を聴かずして育ったとは到底考えられない。そこで我々は、幼少期のモーツァルトについて考察する。

 

『ナンネルの楽譜帳』に記譜された最初期の小品

*作曲年代: 1761年1月~おそらく1764年、ザルツブルグにて 

幼少時代、古典的演奏法の『ヴァイオリン教程』を編纂した父レオポルドによって、モーツァルトは教育を受けた。それを知る手掛かりとして『ナンネルの楽譜帳』がある。『ナンネルの楽譜帳』は、レオポルドがマリア・アンナ[ナンネル]・モーツァルト(Maria Anna [Nanner] Mozart1751-1829)のために与えたもので、20曲以上のメヌエット、その他、アレグロ、スケルツォ、ポロネーズ、マーチ等、全50曲ほどの作品からなる。レオポルドは、ヴォルフガングの才能に気付き、その成長の様子を『ナンネルの楽譜帳』に克明に書き記した。「この作品をヴォルフガングは、5才になる3日前の夜9時から9時半までに修得した」というような記述が書いてある。そこには、1761年のK6.1a~K6.1dから1764年のK6.5a、K6.5bまでの作品が収録されている。この段階でのモーツァルトの作品を知るものとしては、『ナンネルの楽譜帳』が唯一の資料である。その中の作品に対位法によるものが存在するか調べてみた。作品は、ほとんど作曲者不明のものばかりが並ぶ。時折登場する作曲家は、ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル(Georg Christoph Wagenseil 1715-1777)をはじめとする前古典派の作曲家ばかりである。残念ながら、対位法書法による作品は見当たらなかった。

モーツァルトがまず模範としたのは、ヨハン・ショーベルト(Johann Schobert 1735-1767) であった。『ナンネルの楽譜帳』に残されたK.6(後のヴァイオリンソナタOp.1としてパリで出版)を見ると、ショーベルトが得意としたヴァイオリンの伴奏付ソナタというジャンルを追随したこと、左手の16分音符に現れるアルベルティ・バスの作風からしてショーベルトの影響が濃厚であるといえる。ショーベルトは、当時1760年代のパリ人が要求した「ギャラントなもの」をその音楽の中に持っていた。ショーベルトの音楽は、暖かみのある優しさ溢れるところが特長といえるが、アルベルティ・バスやムスキー・バスの上に展開していく響きには、力強さをも感じ取れることができる。その書法は、シンフォニックなものに近い。それに対しモーツァルトは、アルベルティ・バスを巧みに使用しながらも、旋律線からは、カンタービレな美しさを感じ取れるのが大きな相違であろう。このように幼少期のモーツァルトは、「ギャラントなもの」を求めるという「ホモフォニーの作曲家」としてスタートしたのである。

モーツァルトの時代は、音楽史上バロックから古典派へという急変化を迎える時期にあり、厳格な対位法の時代は、セバスチャン・バッハの死と同時に終わりを告げた。世相は、新しい音楽、つまりメロディーと伴奏がなす親しみやすく心地よい音楽を求めるようになった。しかし、モーツァルトの作品に対位法がなかったからとはいえ、対位法が全く姿を消したわけではない。対位法は教会音楽の中に存在し、モーツァルトは幼少期にこうした音楽に触れていた筈である。事実レオポルドは、1767年ヴォルフガングに「クラヴィーアのためのフーガ」K.41eを、そして「四声フーガ」K.41fを書かせたが、いずれも紛失してしまったという記録が残っている。さらにクリスチャン・フリードリヒ・ダニエル・シューバルト(Christian Friedrich Daniel Schubart 1739-1791)は、『音芸術美学試論』の中でレオポルドについて次のように述べている。「レオポルドは作曲家として、著述家としても知られ、その様式は古風だが、基礎がしっかりしていて対位法の知識が豊富である」(海老澤 1992:41)と。このことからも、幼年のザルツブルグ時代、レオポルドがヴォルフガングに楽典や和声法等の作曲の基本を伝授した際、対位法についての話をした可能性は十分にある。では、西方への大旅行での滞在先ロンドンではどうだったのであろうか。

 

42の小品 『ロンドン・スケッチ帳』 K6.15a~K6.15ss

*作曲年代:1764年、ロンドンにて

8才になったモーツァルトは、いよいよ自分で楽譜を書くようになる。『ロンドン・スケッチ帳』には、メヌエット、ジグ、シチリアーノ、コントルダンス、アルマンド等の舞曲系列の作品、アンダンテ、ソナタ楽章といったソナタや交響曲を想定したものが並ぶ。この曲集からは、ヴォルフガングの興味が演奏から作曲に確実に移っていったことが読み取れる。『ロンドン・スケッチ帳』により、我々は、モーツァルトの手による対位法の作品にはじめて遭遇する。K6.15z [ジグ] c-moll(譜例7)がそれにあたる。

次に K6.15ss [フーガ] a-moll(断片)が挙げられる(譜例8)。

これはカンタータ等の教会音楽のスケッチかもしれない。K6.15zとK6.15ssが示すように、ロンドンで何がしかの形でヴォルフガングがフーガに接した、或いは対位法の指導を受けたと見ることができる。

注目すべきは、ロンドンでクリスティアン・バッハに会ったことにある。対位法の修得に関しては、クリスチャン・バッハからの影響があると考えられるが、いくらクリスチャン・バッハから指導を受けたという経緯があるにせよ、事前に対位法の基礎知識がなければ、ロンドンに来てわずか1年の間にこのような作品が生まれるとは考えられないとするのが自然な見方であろう。ということは、レオポルドがヴォルフガングに対位法についての知識を以前に伝授していたことが推測される。そしてモーツァルトは、クリスチャン・バッハからその後の作風に多大な影響を受けることになる。譜例が示すように、クリスチャン・バッハの選帝候カール・テオドールに捧げた五重奏曲Op.11-6の一節(譜例9)は、モーツァルトのロンドD-dur K.485と著しく類似している。

また、クリスチャン・バッハのピアノコンチェルトOp.13 IIの冒頭(譜例10)と、モーツァルトの2台4手のためのソナタ D-dur K.448第1楽章主題(譜例11)を比較しても、クリスチャン・バッハからの影響は一目瞭然である。

クリスチャン・バッハは、バッハ一族でありながら父のセバスチャン・バッハの対位法とは趣向、精神が違う。なぜなら、クリスチャン・バッハは兄エマニュエルの訓育の手を離れ、ミラノに行き、ミラノ大聖堂のオルガニストを務め、ジョヴァンニ・バッティスタ・サンマルティーニ(Giovanni Battista Sammartini 1700/01-1775)の影響を受け、ボローニャのマルティーニ神父に対位法を学び、その上カトリックに改宗したからである。

作風については、クリスチャン・バッハからの影響が明らかになった。我々は、モーツァルトがクリスチャンに紹介された時、クリスチャンの父が、あの大バッハ、セバスチャンであったことに触れなかったはずはないと考える。また、レオポルドもそれを承知の上でモーツァルトをクリスチャンに引き合わせた可能性も十分に考えられる。とすれば、レオポルドは、バロックの音楽が終わったとはいえ、モーツァルトの音楽に、さらに「モーツァルト独自のもの」を学ばせようと模索していたという仮説をたてることが可能である。それを裏付けることに、レオポルドはこの後、ヴォルフガングを連れてイタリアへ旅行している。

 

アンティフォナ 『クェリテ・プリム・レーニュム・ディ Quaerite primum regnum Dei 〔まず神の御国を求めよ〕』 K.86 (73v)

*作曲年代:1770年10月9日、ボローニャにて

モーツァルトは1769年からイタリアに旅立つ。クリスチャン・バッハがそうしたように、彼もミラノに立ち寄り、サンマルティーニに会った。アルフレート・アインシュタイン(Alfred Einstein 1880-1952)によれば、「サンマルティーニは、ギャラントな作曲家であるだけでそれ以外の何ものでもない」(アインシュタイン1997:240)というが、サンマルティーニは、室内楽の分野においてモーツァルトに大きな影響を及ぼした。しかながら対位法的な作曲法は、まだ作品の中には現れてこない。例えばモーツァルトの弦楽四重奏曲 G-dur K.80 (73f)は、「情愛のこもったアダージョではじめ、騒がしいアレグロをそれに続け、完成されたメヌエット、すなわち新しい調性のトリオ一つをもつメヌエットで曲を結んでいる。これは典型的にミラノ式である。」(アインシュタイン1997:240以下)と、アインシュタインは分析する。

ミラノを発ったモーツァルト父子は、南への旅路を続け、ボローニャに到着する。クリスチャン・バッハが師事し、中世以来ドイツ、イタリアで現れた対位法の理論家の中でも最高の権威とされるイタリア人のマルティーニ神父に作曲法を学ぶためである。彼は音楽史の研究家でもあり、1757年『音楽史』第1部を刊行した。彼は、その中からカノン風楽曲の練習をさせ、古い多声音楽の声楽様式にモーツァルトを親しませようとした。モーツァルトは、ボローニャ内外の優れた音楽家による会員組織『音楽協会』の試験を受けた。記録によると、1770年10月9日、モーツァルトは部屋に閉じ込められ、グレゴリオ聖歌の一曲を手渡された。課題は、「まず神の御国を求めよ」という第1旋法のアンティフォナ(聖霊降臨後の第十四主日に歌われる聖歌)を合唱4部に編曲するというものだった。モーツァルトは、これを1時間足らずで完成させ、全員一致で入会を許可されたという。これは、アンティフォナK.86(73v)(譜例12)として新モーツァルト全集 I−3に整理され、モーツァルトの作品(答案)に手を入れたマルティーニ神父の、いわば模範解答も現存する。

マルティーニ神父がモーツァルトに教示した対位法は、16世紀教会音楽のジョヴァンニ・パレストリーナ以来の伝統に従った厳格なものであった。モーツァルトは、さらにマルティーニ神父の『音楽史』の中から数曲の謎カノンを写し、4つの謎カノンK2.89a II(73r)として残している。これは新モーツァルト全集 III−10に整理されている。

アインシュタインは、レオポルドの誇らしげな「モーツァルトの音楽協会入会報告」に対し批判的である。「レオポルドの自慢は〈ほら〉である」と。理由は「モーツァルトは、その試作を提出したが、それは特別な事情を考慮に入れれば十分なものと判断された」という記録が示すように、「入会規定では20才以上となっているが、マルティーニ神父の推薦により入学を許可された」というアインシュタインの見解である。アインシュタインは、さらに「モーツァルトは、このボローニャでの経験をたちまち忘れてしまった。真正なものであろうと擬古的なものであろうと、16世紀の様式に関係あるいっさいのものは、モーツァルトにとってなんの意味も持たなくなるからである。」(アインシュタイン1997:210) と言っているが、モーツァルトは生涯マルティーニ神父を尊敬しているという事実があることから、アインシュタインのように言い切ってしまうのは疑問が残る。

モーツァルトはイタリア旅行からザルツブルクに帰った後に、ボローニャで得た体験を復習し発展させることを忘れなかった。つまり、自分の「ギャラントな」様式を対位法の研究によって深めようとする試みが始まったのである。『音楽史』の9つの謎カノンは、マルティーニ神父が課題として与えたものであり、かつては1770年夏以降にイタリアで書かれたものと推測されてきたが、ヴォルフガング・プラート(Wolfgang Plath 1926~)の筆跡研究の結果、1772年以降に、つまりモーツァルトがイタリアからの帰郷以降にということが判明した。これがK.73xのカノンの習作として資料の裏付けになる。このギャラントな様式を対位法の研究によって深めようとする概念は、その後マンハイム・パリ旅行までの6-7年の間モーツァルトの作品を支配する。

対位法を知ることは、テーマがどのように変形しながらそれぞれの声部に出現し、それらが相互にどうかかわっていくかというアプローチを体験することである。対位法の知識は、複雑な声部をもつシンフォニーや、教会音楽を作曲するにあたって必要不可欠なものであるはずである。そこで、ザルツブルグで作曲されたクラヴィーア(オルガン)のためのフーガ g-moll K.401 (375e) (断片)(譜例13)がどのようなものであるか考察を入れたい。

 

クラヴィーア(オルガン)のためのフーガ g-moll K.401 (375e) (断片)

*作曲年代:おそらく1773年、ザルツブルグにて

K.401は、1782年春ウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵の館でバロック音楽に接した結果生まれた作品と言い続けられて来た。この4分の4拍子、4声フーガの主題は、高声部から低声部へと自然に流暢に受け継がれ、豊かな響きをもたらす。厳格な様式のもとに作曲されたフーガである。このようなフーガは、ウィーンでセバスチャン・バッハの音楽に接した為生まれたと言う訳である。しかしその定説は、プラートの筆跡研究の結果、見事に覆されたのである。K.401は、1773年ザルツブルグで作曲されたものであるということが判明した。K.401では、K.86に見られるような14才の少年が手がけたという、「ぎこちなさ」は姿を消し、イタリアに旅行して以来3年という短い年月の隔たりにもかかわらず、成長ぶりが窺える。その上、プラートの筆跡研究が行われるまで研究者たちが26才のモーツァルトの作品と信じて疑わなかったほど、厳格な対位法によるものだったのである。このことにより、モーツァルトは幼少期よりオルガンの対位法的な作品に親しんできたのであり、ウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵だけがフーガやバロック的手法との唯一の接点ではないということが明らかにされてくる。

セバスチャン・バッハの作品を実際に手にしたのは、ウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵の館であったことは前にも述べた。それは、モーツァルトの脳裏に焼きついていたであろう「セバスチャン・バッハ」という存在に、じかに触れることができたチャンスであったに違いない。自由奔放な表現力は当然として、厳格な対位法がモーツァルトの晩年の制作を助けるようになっていく。ウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵こそが、セバスチャン・バッハのフーガをモーツァルトが研究するための機会を与えた人物なのである。では、セバスチャン・バッハからの影響が、彼のクラヴィーアソナタにどうかかわっていったのであろうか。

 

幻想曲 d-moll K.397 (385g)

*作曲年代:1782年初め?ウィーンにて

前奏曲(幻想曲)とフーガ C-dur K.394が成立した年、モーツァルトは幻想曲 d-moll K.397を手がけている。K.397は大変謎が多く、興味深い作品である。この曲の問題点を挙げてみると、まず幻想曲という題名である。幻想曲という様式は、その後にフーガ或いはソナタが続くものと考えられる。しかし、この曲に続く作品が見当たらないどころか、曲は97小節のフェルマータで突然途絶え、モーツァルトは最後の10小節を作曲しなかったという事実がある(譜例14)。

何者かがこの10小節を付け加え、現在の姿に至っているが、誰がこの10小節を埋めたかは未だに判明していない。新モーツァルト全集によれば、「おそらく、アウグスト・エバーハルド・ミュラー(August Eberhard Müller 1767-1817)によるもの」とされている。この10小節は、モーツァルトの手によるものではないということは明らかであり、繋ぎの不自然さは否めない。演奏家によっては、その10小節を完全に無視し、97小節からダ・カーポし、モーツァルト的なハーモニー展開で曲を締めくくるという苦肉の策を演じているが、問題はモーツァルトの作品がフラグメントに終わったことにある。

次に、この幻想曲は、プレストの指示がある2回の即興、冒頭のハーモニー的な動き、半音階的な転調から見て、パリ時代までのモーツァルトの作品とは明らかに作風が違うことに気付く。これもセバスチャン・バッハの影響によるものと考えられる。冒頭のアンダンテ表示と12小節のアダージョ表示の違いは、テンポの違いによるものではなく性格的な違いであると私は考える。教会の鐘の音を想起させる f の主題が e-moll で現れる20小節はアダージョ表示、同じ主題が35小節の g-moll 部分では、テンポ・プリモの表示である。テンポ・プリモということは、アンダンテということになる。このことは、主題が転調とともにニュアンスを変えていくというセバスチャン・バッハの影響であるということができる。

このようなセバスチャン・バッハの模倣から考えると、モーツァルトは、この幻想曲の後にフーガを続けようと考えていたという仮説をたてることを提案したい。彼は、弦楽四重奏の作曲の折に、「骨が折れる*注1」という言葉を使っている。フーガの作曲はモーツァルトにとって大変な労力を必要としたに違いない。それ故に、その楽想が豊かすぎたところから、自分のフーガの構想を模索していたのではないだろうか。途方にくれたモーツァルトは、幻想曲の最後の10小節を未完に終わらせてしまったという説も可能である。3年後に成立した幻想曲 c-moll K.475は、後に続くクラヴィーアソナタc-moll K.457と作曲年代に1年の歳月の隔たりがある。この場合は、先にソナタが完成し、幻想曲が後で付けられた。K.397については、空白の10小節をモーツァルト自身の手で埋め、後に続く作品を作曲することは不可能だったのであろうか。その作品が現存しないところからも、K.397をめぐってのモーツァルトの楽想がとてつもないものであったと考えたい。1782年当時、フーガのフラグメントが多く存在するところからも、ヴァン・スヴィーテン男爵のもとでセバスチャン・バッハを研究したものの、フーガを自分の音楽に取り入れることは至難の業であったことが窺える。

「ホモフォニーの作曲家」としてスタートしたモーツァルトは、ボローニャのマルティーニ神父のもとで、さらにウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵のもとでフーガを学んだ。考察してきたように、モーツァルトにとってフーガを自分の音楽に取り入れることは「骨が折れる」ことであった。なぜ、そこまでしてフーガの技法を身につけたかったのかは、「コンスタンツェがフーガに大変興味を示した」という理由はさておき、議論の余地のあるところである。フーガの技法を身につけることによって、彼の作品が変わってきたことは事実である。モーツァルトが生きた時代は、ポリフォニックな作曲技法は教会音楽の分野では存在していたが、器楽の世界では、ホモフォニーの「ギャラントな」作風が主流の時代である。これはウィーンにおいてもいえることであり、当時ウィーンでセバスチャン・バッハの音楽が一般に受容されないことを熟知の上、モーツァルトはセバスチャン・バッハの厳格な対位法を基幹とした作曲法を学んだのである。しかし筆者は、モーツァルトが自分が対位法作曲家として、セバスチャン・バッハに対抗したり、自らの手で時代の流れをバロックに差し戻そうとしたわけではないと推察する。それは1783年以後の作品を見るとわかってくる。いわゆる「フーガ制作のための作品」は存在しなくなるからである。1782年、すなわちモーツァルトのフーガ年(この表現が適切かどうかわからないが)の翌年以後の作品の中で対位法が誇示的に表現されたものを探してみた。交響曲では、第40番 g-moll K.550のメヌエット(譜例15)、クラヴィーア作品では、2台のクラヴィーアの為のフーガ c-moll K.426(譜例16)、そしてクラヴィーアのためのロンド F-dur K.494*注2 (譜例17)の152小節から突如として現れるカノン進行がそれにあたる。

では、モーツァルトが、フーガの技法を、彼のホモフォニーの中に取り入れられたきっかけは、どこにあるのだろう。ここで、我々は、ヨゼフ・ハイドン(Joseph Haydn 1732-1809)からの影響について触れねばならない。ハイドンは、1781年に作品33の「ロシア四重奏曲(譜例18)」を書き、モーツァルトは、この「ロシア四重奏曲」に啓示を受けたとされている。

モーツァルトは、1782年12月から1785年1月までにハイドンに6曲の弦楽四重奏曲(G-dur K.387、d-moll K.421(417b)、Es-dur K.428(421b) 、B-dur K.458、A-dur K.464、C-dur K.465)を献呈した。「ハイドン四重奏」を書くことによってモーツァルトは、「対位法」を誇示せず、自然な音楽の流れの中に「隠す」ことを学んだと考えられる。それを裏付けてくれるのは『モーツァルトの手紙』である。同じ頃作曲された彼自身のピアノ協奏曲についての記述がある。

 

手紙 (4)「これらの協奏曲は、むずかしすぎるものとやさしすぎるものとの中間のもので、——とても豪華絢爛としていて——耳に快く響きます。自然で——空虚に堕することはありません。——そこそこに——通人だけが満足を得ることもできますが、——それでも、——通人でなくても、なぜかは知らないで、それに満足するはずのものなのです。」(モーツァルトの手紙、1782年12月28日付、レオポルド宛)

 

この手紙は、すべての聴衆に受け容れられようというモーツァルトの姿勢を示すものとも理解できるが、晩年にむけての作風の本質を担う重要な手がかりとなる。

「むずかしいもの」を何か「あるもの」によって覆ってしまえば、そのむずかしさは、聴き手にわからなくなる。さらに聴き手は、その音楽を自分が表現できるのではないかと思う。その「あるもの」とは「戯れ」である。そして、「むずかしいもの」とは「テクニック」すなわち「対位法」である。ハイドン四重奏の批評でアインシュタインのいう「モーツァルトの最も個人的な音楽」(アインシュタイン1997:257)には、「対位法を駆使した」作品も含まれていた。しかしそれは、セバスチャン・バッハの模倣にとどまらず、ハイドンの影響を受けたモーツァルトの対位法を含む作曲技法が、「モーツァルト独自のもの」となったことを明らかにする。晩年にいくにしたがってこの傾向は顕著になって作品に現れていく。このような過程を経て、我々は最後のクラヴィーアソナタとなった K.576に辿り着くことになる。

 

クラヴィーアソナタ第18番 D-dur K.576

*作曲年代:1789年7月、ウィーンにて

 

8分の6拍子、アレグロの第1楽章第1主題(譜例19)は、狩猟のホルン信号である。

D-dur という調性、拍子、音型から見て、我々はこの主題からセバスチャン・バッハの平均律 II−5のプレリュード(譜例20)を想像する。

モーツァルトの想念は、バッハの平均律と推測できるが、リズムの根幹は8分の6拍子の4-8-4-8分音符というリズム、つまりジグのリズムである。主題に隠されたAD-Dfis-FisA-AAという動機が狩猟の色彩を印象づける。主題は9小節から変奏され、対位法書法が使われる。しかし音楽の根幹は、テーマの4-8-4-8分音符という動機であり、対位法音楽であることを誇示していないのである。経過部の16分音符をよく見ると、そこにはGfisE-AGFis-HAG-という(20小節~21小節)(譜例21)主題からの動機が隠れている。

この「主題を隠す」という方法は、しばしばセバスチャン・バッハが行うやり方であり、セバスチャン・バッハの影響ということがいえる。しかし、モーツァルトのそれは、2小節楽節のハーモニー展開の中で自然に行われるのである。「自然さ」を感じさせるものは、16分音符の流暢な流れにある。モーツァルトの16分音符は、装飾音を書いたもの、或いはフィギレーション、カンタービレなものを示す。音階的な16分音符は「カンタービレ」を示し、フィギレーション、装飾音とともに「モーツァルト的なアレグロ」、いわば「歌うアレグロ」の根幹をなす。この「歌うアレグロ」が「バッハ的なものを隠す」ことに表出手段として一役買っているといえよう。42小節の第2主題(譜例22)は、第1主題2~4小節から派生したものということができる。

CisD-、EFis-、A-Gisという第2主題は、CisD-、Efis-、Fis-Eという第1主題に呼応する。この主題の単一性は、セバスチャン・バッハの時代からの作曲法の根底を流れるコンセプトとして特長づけられるものである。第1楽章28小節から41小節は、138小節から152小節で位置転換される。この位置転換は、セバスチャン・バッハが、シンフォニアなどで時々行う作曲法である。59小節から98小節の展開部では、カノン楽節により音楽が発展していく。主題に現れるタイで結ばれたシンコペーションの音型は、セバスチャン・バッハからの影響によるものであろうが、音楽の前進を表出するのを効果的にする。さらに、そこにある「歌うアレグロ」の根幹をなす16分音符が、対位法を用いながらも、音楽の流れを自然なものにしている。これは、「ギャラントな」ものが「学問的な」ものと融合したことを示し、「モーツァルト固有のもの」を作りあげたといえないだろうか。フレーズは小節線を越えているが、拍節感は小節冒頭にある。

さらに、アウフタクトが音楽の進行を支配するという「バッハ的な」作風は、第2楽章にもあてはまる。テーマのアーテュキレーションは小節を越え、次の小節の頭に向かっている。32音符の連続は、よく見るとフレーズが次の拍の頭にかかり、このこともまたセバスチャン・バッハからの影響を示している。

第3楽章は、8小節のピアノ・ソロの後、オーケストラが追いかけるというモーツァルトのピアノ協奏曲、第3楽章によく見られる作風で開始する。左手に突然現れる3連音符は、音階、アルペジョと形を変え、その中に、ロンド主題は、対位法の扱いによって時々現れる。この主題は、『魔笛』K.620の中でひょっこり現れるパパゲーノのようにユニークである。ロンド主題は、ダイナミズムを変えながら転調し、三連符のパッセージの上に、或いは対照的に出現し、見事なコントラストをなす。三連符は、アルペジョを形成し、ハーモニーを壮大にしていく。ハーモニーが壮大でスケールの大きい作品といえば、我々は即座に『ドン・ジョヴァンニ』K.527を想像する。スケールの大きさという「オペラ的な」演出をも感じさせるこの作品は、モーツァルトのソナタの集大成としてふさわしいものとなっている。

楽譜は一見単純なように見えても、その構造は「複雑」である。しかし、不思議なことに、この楽章においても、その音楽は自然であり、形の複雑さを感じさせない。「格式ばった」、或いは「気難しいもの」をさりげなく音楽の中に潜り込ませ、モーツァルトの天性の感性である「自然の流れ」が表にある。『モーツァルトの手紙』で見た、「本当の言いたかったことを、茶目っ気で覆い隠してしまう」論法のように、そこには、まさに晩年モーツァルトが到達した「独自の世界」が展開されていた。

 

終わりに

17才の時に作曲されたオルガンのためのフーガ g-moll K.401は、プラートの筆跡鑑定が行われるまで、ウィーン時代の作品と多くの学者が主張するほどのフーガの力作であった。本文で明らかにしたが、この作品が生まれるまでにレオポルドはモーツァルトに対位法を教示し、ロンドンやボローニャで確かなポリフォニーを学ばせたことが判明した。このことから、ウィーンのヴァン・スヴィーテン男爵だけがフーガやバロック的手法との唯一の接点ではないということが証明された。ヴァン・スヴィーテン男爵の館での「バッハ研究」は、セバスチャン・バッハの模倣から始まったが、「なぜ、セバスチャン・バッハのフーガを学んだか」は、疑論の余地を残すところである。この問題については、ロンドンのバッハ、すなわちクリスチャン・バッハとの出会いが大きいと推察する。十代の多感な時期に受けた教育は、モーツァルトの中に脈々と生き続けていたと筆者は結論づけたい。そして二十代で再びフーガに出会った時、子どもの頃に回帰する沸々と湧き出る思いがあったに違いない。モーツァルトの音楽は、晩年のクラヴィーアソナタにおいて、対位法を取り入れることによって自然にバロックとホモフォニーが融合し、見事に花開いた。後期のクラヴィーアソナタでは、次第に、対位法といういわば「学問的なもの」を彼自身の音楽の中に「隠す」ことを試みるようになっている。筆者はそれを、モーツァルトの特有の「歌うアレグロ」が「バッハ的なものを隠している」と結論づけたい。しかしながら、演奏家の観点からいえば、「隠した」のではなく、彼の「感性」が「自然に」対位法を「隠してしまった」というのが正確であろう。この「自然さ」という想念が、モーツァルトの生涯の作品を左右してきたといっても過言ではない。モーツァルトの作風は、「ポリフォニックなもの」となった晩年に向けて複雑さを増す。洗練された作品は、ますます洗練されていく。しかし、音楽における「自然さ」は、形の複雑さを感じさせない。モーツァルトの対位法は、「学問」という領域をこえ、モーツァルト特有の鋭い感性と豊かな楽想に結びつき、作品に磨きをかけていった。このようにして生まれた作品は、「モーツァルト固有のもの」であると結論づけたい。

 

[注]

(1)6つの弦楽四重奏のハイドンへの献呈の言葉の中で、「それらは、確かに長い骨の折れる努力の成果です」と述べている。<Essi sono, è vero, il frutto, di una lunga, e laboriosa fatica>

(2)新モーツァルト全集では、クラヴィーアのためのアレグロとアンダンテK.533とともに、ソナタ15番とされている。

 

[作品番号表記]

ケッヘル番号(Köchel)は、ケッヘルの『モーツァルト全作品主題目録』初版(1862年)の番号をK.と記し、最新版(第6版1964年)で番号に異同があった場合には、それを( )内に示した。第6版番号しかない作品については、K6.として表記し、同様に第2版の場合は、K2.と記した。

 

参考文献

・Mozart. Eigenhändiges Werkverzeichnis (Faksimile), Bärenreiter,1991

・Köchel , Ludwig Ritter von.1983: Chronologisch-thematisches Verzeichnis sämtlicher Tonwerke Wolfgang Amadé Mozarts nebst Angabe der verlorengegengen, angefangenen, von fremder Hand bearbeiteten, zweifelhaften und unterschobenen Kompositionen . Achte, unveränderte Auflage. Breitkopf&Härtel,Wiesbaden

・Bauer-Deutsch: Mozart.Briefe und Aufzeichnungen. Gesamtausgabe, herausgegeben von der Internationalen Stiftung Mozarteum Salzburg, gesammelt (und erläutert) von Wilhelm A.Bauer und Otto Erich Deutsch, 4 Textbände, Kassel etc: Bärenreiter, 1962-1963, Kommentar in zwei Bänden von Joseph Heinz Eibl, Kassel etc: Bärenreiter, 1971, Register (Bande), zusammengesellt von Joseph Heinz Eibl, Kassel etc: Bärenreiter, 1975 〔海老澤敏、高橋英郎編訳 1976 『モーツァルト書簡全集』全6巻  東京:白水社〕

・Deutsch,Otto Erich und Eibl, Joseph Heinz.1981: Mozart.Documente seines Lebens. Kassel-Basel-London, München: Bärenreiter-Verlag, Deutscher Taschenbuch Verlag.〔井本訳 1989 『ドキュメンタリーモーツァルトの生涯』 東京:シンフォニア〕

・Einstein, Alfred.1945: Mozart. His Character, His Work. New York: Oxford University Press. 〔浅井真男訳 1997 『モーツァルト その人間と作品』 東京:白水社〕

・Gay, Peter.1999: Mozart. New York: Penguin Putnam Inc. 〔高橋百合子訳 2002 『モーツァルト』 東京:岩波書店〕

・Landon, H.C.Robins.1990: The Mozart Compendium. London : Thames and Hudson Ltd. 〔海老澤敏日本語版監修: 1996 『モーツァルト大事典』 東京:平凡社〕

・Nys, Carl de: La Musique Religieuse de Mozart. Presses Universitaires de France. 〔相良憲昭訳 1989 『モーツァルトの宗教音楽』 東京:白水社〕

・海老澤敏: 1992 『新モーツァルト考』 東京:日本放送出版協会

・海老澤敏、吉田泰輔監修: 1991 『モーツァルト事典』 東京:東京書籍

・海老澤敏先生古希記念論文集編集委員会編: 2001 『モーツァルティーナ海老澤敏先生古希記念論文集——』 東京:東京書籍

・吉田秀和、高橋英郎編: 1995 『モーツァルト頌』 東京:白水社

 

楽 譜

・Bach, J.S. Das Wohltemperierte Klavier: Band I,I I, Wiener Urtext Edition

・Bach, J.S. Inventionen und Sinphonien, Wiener Urtext Edition

・Bach, J.S. 6 Partita, Wiener Urtext Edition

・Bach, J.S. Toccaten, G.Henle Verlag Ausgabe

・Haydn. String Quartet Op.33, Edition by Willhelm Altmann

・Mozart. Klaviersonaten: Band I, II, Wiener Urtext Edition

・Mozart. Klavierstücke, Wiener Urtext Edition

・Mozart. Neue Ausgabe Sämtlicher Werke, Bärenreiter,1954-1991

初出:『音楽文化研究』第2号(聖徳大学人文学部音楽文化研究会、2003)


関連ページ:

・教員紹介:原 佳之
・論文誌『音楽文化研究』


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