モヌツァルトin聖埳2006 > 論文・゚ッセむ


フヌガがモヌツァルトの埌期クラノィヌア゜ナタに䞎えた圱響 

聖埳倧孊人文孊郚音楜文化孊科

教授 原 䜳之

 

はじめに

ノォルフガング・アマデりス・モヌツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart 1756-1791)の晩幎に䜜曲されたクラノィヌア゜ナタには、察䜍法曞法が倚く䜿われおいる。筆者は199幎から1997幎たでの間、日本モヌツァルト愛奜䌚の䟝頌によりモヌツァルトのフラグメントを含むクラノィヌア・゜ロ曲党曲をリサむタルにおいお挔奏し、その䜜品の分析、挔奏法に぀いお研究しおきた。埌期クラノィヌア゜ナタの「耇雑にさせおいるもの」に興味があった筆者は、長い間それに泚目しおきた。晩幎のモヌツァルトが䜜曲家ずしお成功する䞀方、父の死や財政難にみたわれたこずが音楜の襞ずなっお䜜品に珟れおいるずいう定説は、疑う䜙地がない。党曲挔奏をするこずによっお、晩幎のクラノィヌア゜ナタは、さらにフヌガずのかかわりが倧きいこずを再発芋した。なぜ、モヌツァルトはフヌガに魅せられたのであろうか。察䜍法曞法を取り入れるにあたっおのきっかけは䜕か。よく蚀われるように、ノァン・スノィヌテン男爵の通でのバッハ䜓隓によるずころが倧きいのだろうか。

「ホモフォニヌの䜜曲家」ずしおスタヌトしたモヌツァルトは、むタリア・ボロヌニャでゞャンバッティスタマルティヌニ神父(Giambattista Padre Martini 1706-1784)に音楜理論を孊んだ。さらにりィヌンにおけるゎットフリヌト・ノァン・スノィヌテン男爵(Gottfried van Swieten 1733-1803)の通でフヌガに魅せられ、察䜍法を駆䜿する「ポリフォニヌの䜜曲家」ぞず掚移した。本皿では、フヌガが圌の䜜品にどうかかわっおいったかを認識し、それによっおどのような集倧成を遂げたかを、クラノィヌア゜ナタを䞭心に考察する。

 

研究内容

モヌツァルトがフヌガの圱響を受けたずされるノァン・スノィヌテン男爵は、膚倧なバロック音楜のコレクションを誇る人物だった。圌は、1770幎から1777幎たで駐プロむセン倧䜿ずしおベルリンに滞圚した。そしお、フリヌドリヒ倧王(Friedlich?, K?nig von Preussen 1712-1786)ず亀友関係があり、倧王に仕えおいたカヌル・フィリップ・゚マニュ゚ルバッハ(Carl Philipp Emanuel Bach 1714-1788)にも面識があった。ノァンスノィヌテン男爵が、ノェンツェル・アントン・カりニッツリヌトノェルク䌯爵(Wenzel Anton Kaunitz-Rietberg 1711-1794)にあおた文曞(1774幎月26日付)を読むず、ノァン・スノィヌテン男爵が、ペハン・セバスチャン・バッハ(Johann Sebastian Bach 1685-1750)の䜜品を圓地で知ったこずがわかる。圌ぱマニュ゚ルバッハを蚪れ、セバスチャンバッハの䜜品を賌入した。そしお、『フヌガの技法』、『むンノェンションずシンフォニア』、『平均埋クラノィヌア曲集』、『フランス組曲』、『むギリス組曲』、『パルティヌタ』、『音楜の捧げもの』、『オルガンのための前奏曲ずフヌガ』等の印刷譜や写譜をりィヌンに持ち垰った。1782幎からノァン・スノィヌテン男爵の通では、毎週日曜日に「音楜協䌚」「りィヌン楜友協䌚」の前身ずいう集たりがあり、コンサヌトが催された。そこに、モヌツァルトは招埅された。「音楜協䌚」では『平均埋クラノィヌア曲集』をはじめずするセバスチャン・バッハの䜜品の他に、ゲオルク・フリヌドリヒ・ヘンデルGeorg Friedrich HÀndel 1685-1759の䜜品も挔奏された。圓時りィヌンでは、トルコの音楜が氟濫し、モヌツァルトの䜜品では、トルコを舞台ずしたゞングシュピヌル『埌宮からの誘拐』K.384が成功する䞀方で、察䜍法の勉匷がはじたった。それを裏付ける手玙がある。

 

手玙 (1)「ずころで、お願いしようず思っおいたのですが、ロンドヌを返しおくださる時、ヘンデルの぀のフヌガず、゚ヌベルリヌン(Johann Ernst Eberlin 1702-1762)のトッカヌタずフヌガも䞀緒に送っおください。——がくは、毎日曜日、12時にノァン・スノィヌデン男爵のずころに行きたす。——そこでは、ヘンデルずバッハ以倖は䜕も挔奏されたせん。——がくはいた、バッハのフヌガを集めおいたす。セバスチャンの䜜品だけでなく、゚マニュ゚ルやフリヌデマン・バッハWilhelm Friedemann Bach 1710-1784のも含めおです。——それからヘンデルのも。そしお、・・だけが欠けおいたす。——男爵にぱヌベルリヌンの䜜品を聎かせおあげたいのです。——むギリスのバッハが亡くなったこずはもう埡存知ですね——音楜界にずっおなんずいう損倱でしょう」(モヌツァルトの手玙、1782幎月10日付、レオポルド宛)

手玙 (2)「゚マニュ゚ル・バッハのフヌガ(曲あるず思いたす)を写譜しお、い぀か送っおもらえるず、ずおもありがたいのですが。——ザルツブルグでこれをお願いするのを忘れおしたったのです。」(モヌツァルトの手玙、1783幎12月24日付、レオポルド宛)

 

手玙 (1)は、人のバッハが登堎する珍しい文曞である。幌少期より敬愛しおいたペハン・クリスチャン・バッハ(Johann Christian Bach 1735-1782)が他界し、モヌツァルトの関心は、゚マニュ゚ルバッハずセバスチャンバッハに向かっおいく。手玙 (2)は、゚マニュ゚ルぞの関心を瀺すものであり、内容から、ペハン・ゲオルク・レオポルドモヌツァルト(Johann Georg Leopold Mozart 1719-1787)のもずには、ヘンデルや゚マニュ゚ルバッハのフヌガの楜譜があったこずが蚌明される。しかし、レオポルドがその楜譜をモヌツァルトの幌少期に手に入れたのか、モヌツァルトがフヌガに関心をも぀ようになっおから手に入れたのかは定かではない。

モヌツァルトは、ずりわけセバスチャン・バッハの䜜品を研究し、フヌガを暡倣した。そこで生たれた䜜品は、前奏曲幻想曲ずフヌガ C-dur K.394 (383a) (譜䟋)である。この曲が「バッハの暡倣」ずいわれる所以は、どんなずころにあるのだろう

 

前奏曲幻想曲ずフヌガ C-dur K.394 (383a)

䜜曲幎代1782幎月、りィヌンにお

元来前奏曲の圹割は、楜噚(クラノィヌア)の響き具合、鍵盀の状態、調埋の具合、和音やナニゟン等の音色等を、次にくるフヌガ、゜ナタ等の挔奏の前に詊すため、もう぀は、次の曲ぞの導入であった。圓時の前奏曲の性栌は、構築性よりも即興性が重んじられた。しかし、.394の前奏曲のフレヌズは、ブロックごずに意味をなし、構築性に優れ、豊かな楜想にささえられおいるずいう点で、今たでの前奏曲の域を脱しおいるずいえる。この䜜品の即興性では、セバスチャン・バッハの幟぀かの『オルガンのための前奏曲ずフヌガ』、『半音階的前奏曲ずフヌガ』を想起させる。冒頭の右手ず巊手がナニゟンで荘重にはじたる䜜颚は、幻想曲 c-moll .475を予期させ、オルガン的である。楜想からは「ホモフォニヌの䜜曲家」ずしおスタヌトしたモヌツァルトが、「ポリフォニヌの䜜曲家」に掚移しようずする意気蟌みを感じるのである。アンダンテの巊手に珟れる付点音笊(譜䟋)は、バロックの奏法に習い、右手の䞉連笊ず同じリズムで挔奏するべきである。

本来付点音笊は、自由な即興の発想のもずに挔奏されるべきリズムである。䞉連笊ず付点音笊が同時に䜿われるのは、セバスチャン・バッハがよく甚いた蚘譜法である。䟋パルティヌタ第番クヌラント(譜䟋)。

さらに、巊手のオクタヌブを甚いたバスの䞉連笊(譜䟋)からも、この曲がオルガンのための䜜品であるずいうこずが掚枬される。

モヌツァルトは、クラノィヌア゜ナタにおける蚘譜の䞭で、 で挔奏しおほしい時によくオクタヌブを䜿った。䟋クラノィヌア゜ナタ F dur K.332 第楜章(譜䟋)。

しかし、K.394における巊手のオクタヌブは、生たれおくる響きの豊かさにおいお、この域をはるかに越えおいる。導入郚の響きの豊かさ、即興が倚いこずも含め、この曲がオルガンを想定しお䜜曲したのではないかずいう根拠になる。

次に、フヌガ(譜䟋)においお、楜曲をなす芁玠がいかにセバスチャン・バッハず共通点があるかを挙げ、具䜓的な䟋がある堎合は、セバスチャン・バッハのむンノェンションずシンフォニア、平均埋クラノィヌア曲集から探し出しおみた。

 

     フレヌズが解決音たでずなっおいるこず

     シンコペヌションの音型が倚く、シンコペヌションをなしおいる音が楜曲の構造䞊重芁な動きずなっおいるこず

     色圩豊かな経過的転調

     転調した堎面においお、テヌマの音色、匟き方が倉わっおいくこず

     カンタヌタ的な16分音笊→平均埋 II−14フヌガ等

     ロングトヌンが倚く、ロングトヌンがなすハヌモニヌの䞭で16分音笊がレガヌトに流れるずいう楜想→むンノェンション声−、平均埋I−、23、II−プレリュヌド等

     16+16+8+8+8分音笊の音型→むンノェンション声−、声−、、平均埋I−フヌガ等

     半音階的な動き→平均埋I−24フヌガ等

     C-durずいう調性→むンノェンション声−、声−、平均埋 I−、II−

 

以䞊の点から、前奏曲幻想曲ずフヌガK.394は、たさにセバスチャン・バッハを暡倣した䜜品ず蚀うこずができよう。モヌツァルトはこのK.394を䜜曲した頃、幟぀かのフヌガの断片を曞いおいる。それは、ノァン・スノィヌテン男爵の通で挔奏された楜譜が自宅になかった時、コンスタンツェ・モヌツァルト(Constanze Mozart 1762-1842)のために苊肉の策ずしお䜜曲したもの、或いは新しいフヌガを曞くための䞋曞きにしたもの、勉匷の教材ずしお䜿ったず思われるものがある。K.394の完成にあたっお、モヌツァルトは手玙にこう述べおいる。

 

手玙 (3)「あたり速く匟かれないように、がくはフヌガにきちんずアンダンテ・マ゚ストヌ゜ず指瀺したした。なぜならフヌガはゆっくり匟かないず入っおくる䞻題が明瞭に聎き取れないし、そうするず面癜味がなくなっおしたうからです。」モヌツァルトの手玙、1782幎月20日付、ナンネル宛

 

そしお、この手玙からは、モヌツァルトが前奏曲幻想曲ずフヌガK.394にいかに力を入れおいたかを窺い知るこずができる。

ここたでの過皋では、モヌツァルトがノァン・スノィヌテン男爵ずの出䌚いにより、セバスチャン・バッハを研究したこずが明らかにされた。では、モヌツァルトは察䜍法をノァン・スノィヌテン男爵家で初めお知ったのであろうかこの問いに察しおは疑問を抱かずにはいられない。なぜなら、モヌツァルトの父芪レオポルドは、バロック時代を生きた音楜家であり、モヌツァルトは幌少時代に父から教育を受けた。その内容に「察䜍法」が含たれおいたず考えるのが劥圓であろう。その䞊、圓時の教䌚音楜は、察䜍法の音楜が螏襲されおいたのである。カトリックの敬虔な信者であるモヌツァルトが、その音楜を聎かずしお育ったずは到底考えられない。そこで我々は、幌少期のモヌツァルトに぀いお考察する。

 

『ナンネルの楜譜垳』に蚘譜された最初期の小品

䜜曲幎代 1761幎月おそらく6幎、ザルツブルグにお 

幌少時代、叀兞的挔奏法の『ノァむオリン教皋』を線纂した父レオポルドによっお、モヌツァルトは教育を受けた。それを知る手掛かりずしお『ナンネルの楜譜垳』がある。『ナンネルの楜譜垳』は、レオポルドがマリア・アンナ[ナンネル]・モヌツァルト(Maria Anna [Nanner] Mozart1751-1829)のために䞎えたもので、20曲以䞊のメヌ゚ット、その他、アレグロ、スケルツォ、ポロネヌズ、マヌチ等、党50曲ほどの䜜品からなる。レオポルドは、ノォルフガングの才胜に気付き、その成長の様子を『ナンネルの楜譜垳』に克明に曞き蚘した。「この䜜品をノォルフガングは、才になる日前の倜時から時半たでに修埗した」ずいうような蚘述が曞いおある。そこには、1761幎のK6.aK6.から1764幎のK6.a、K6.bたでの䜜品が収録されおいる。この段階でのモヌツァルトの䜜品を知るものずしおは、『ナンネルの楜譜垳』が唯䞀の資料である。その䞭の䜜品に察䜍法によるものが存圚するか調べおみた。䜜品は、ほずんど䜜曲者䞍明のものばかりが䞊ぶ。時折登堎する䜜曲家は、ゲオルク・クリストフ・ノァヌゲンザむル(Georg Christoph Wagenseil 1715-1777)をはじめずする前叀兞掟の䜜曲家ばかりである。残念ながら、察䜍法曞法による䜜品は芋圓たらなかった。

モヌツァルトがたず暡範ずしたのは、ペハン・ショヌベルト(Johann Schobert 1735-1767) であった。『ナンネルの楜譜垳』に残されたK.埌のノァむオリン゜ナタOp.ずしおパリで出版を芋るず、ショヌベルトが埗意ずしたノァむオリンの䌎奏付゜ナタずいうゞャンルを远随したこず、巊手の16分音笊に珟れるアルベルティ・バスの䜜颚からしおショヌベルトの圱響が濃厚であるずいえる。ショヌベルトは、圓時1760幎代のパリ人が芁求した「ギャラントなもの」をその音楜の䞭に持っおいた。ショヌベルトの音楜は、暖かみのある優しさ溢れるずころが特長ずいえるが、アルベルティ・バスやムスキヌ・バスの䞊に展開しおいく響きには、力匷さをも感じ取れるこずができる。その曞法は、シンフォニックなものに近い。それに察しモヌツァルトは、アルベルティ・バスを巧みに䜿甚しながらも、旋埋線からは、カンタヌビレな矎しさを感じ取れるのが倧きな盞違であろう。このように幌少期のモヌツァルトは、「ギャラントなもの」を求めるずいう「ホモフォニヌの䜜曲家」ずしおスタヌトしたのである。

モヌツァルトの時代は、音楜史䞊バロックから叀兞掟ぞずいう急倉化を迎える時期にあり、厳栌な察䜍法の時代は、セバスチャン・バッハの死ず同時に終わりを告げた。䞖盞は、新しい音楜、぀たりメロディヌず䌎奏がなす芪しみやすく心地よい音楜を求めるようになった。しかし、モヌツァルトの䜜品に察䜍法がなかったからずはいえ、察䜍法が党く姿を消したわけではない。察䜍法は教䌚音楜の䞭に存圚し、モヌツァルトは幌少期にこうした音楜に觊れおいた筈である。事実レオポルドは、1767幎ノォルフガングに「クラノィヌアのためのフヌガ」K.41eを、そしお「四声フヌガ」K.41fを曞かせたが、いずれも玛倱しおしたったずいう蚘録が残っおいる。さらにクリスチャン・フリヌドリヒ・ダニ゚ル・シュヌバルト(Christian Friedrich Daniel Schubart 1739-1791)は、『音芞術矎孊詊論』の䞭でレオポルドに぀いお次のように述べおいる。「レオポルドは䜜曲家ずしお、著述家ずしおも知られ、その様匏は叀颚だが、基瀎がしっかりしおいお察䜍法の知識が豊富である」海老柀 199241ず。このこずからも、幌幎のザルツブルグ時代、レオポルドがノォルフガングに楜兞や和声法等の䜜曲の基本を䌝授した際、察䜍法に぀いおの話をした可胜性は十分にある。では、西方ぞの倧旅行での滞圚先ロンドンではどうだったのであろうか。

 

42の小品 『ロンドンスケッチ垳』 K6.15aK6.15ss

䜜曲幎代1764幎、ロンドンにお

才になったモヌツァルトは、いよいよ自分で楜譜を曞くようになる。『ロンドンスケッチ垳』には、メヌ゚ット、ゞグ、シチリアヌノ、コントルダンス、アルマンド等の舞曲系列の䜜品、アンダンテ、゜ナタ楜章ずいった゜ナタや亀響曲を想定したものが䞊ぶ。この曲集からは、ノォルフガングの興味が挔奏から䜜曲に確実に移っおいったこずが読み取れる。『ロンドンスケッチ垳』により、我々は、モヌツァルトの手による察䜍法の䜜品にはじめお遭遇する。K6.15z [ゞグ] c-moll譜䟋がそれにあたる。

次に K6.15ss [フヌガ] a-moll断片が挙げられる譜䟋。

これはカンタヌタ等の教䌚音楜のスケッチかもしれない。K6.15zずK6.15ssが瀺すように、ロンドンで䜕がしかの圢でノォルフガングがフヌガに接した、或いは察䜍法の指導を受けたず芋るこずができる。

泚目すべきは、ロンドンでクリスティアン・バッハに䌚ったこずにある。察䜍法の修埗に関しおは、クリスチャン・バッハからの圱響があるず考えられるが、いくらクリスチャン・バッハから指導を受けたずいう経緯があるにせよ、事前に察䜍法の基瀎知識がなければ、ロンドンに来おわずか幎の間にこのような䜜品が生たれるずは考えられないずするのが自然な芋方であろう。ずいうこずは、レオポルドがノォルフガングに察䜍法に぀いおの知識を以前に䌝授しおいたこずが掚枬される。そしおモヌツァルトは、クリスチャン・バッハからその埌の䜜颚に倚倧な圱響を受けるこずになる。譜䟋が瀺すように、クリスチャン・バッハの遞垝候カヌル・テオドヌルに捧げた五重奏曲Op.11-の䞀節譜䟋は、モヌツァルトのロンドD-dur K.485ず著しく類䌌しおいる。

たた、クリスチャン・バッハのピアノコンチェルトOp.13 IIの冒頭譜䟋10ず、モヌツァルトの台手のための゜ナタ D-dur K.448第楜章䞻題(譜䟋11)を比范しおも、クリスチャン・バッハからの圱響は䞀目瞭然である。

クリスチャン・バッハは、バッハ䞀族でありながら父のセバスチャン・バッハの察䜍法ずは趣向、粟神が違う。なぜなら、クリスチャン・バッハは兄゚マニュ゚ルの蚓育の手を離れ、ミラノに行き、ミラノ倧聖堂のオルガニストを務め、ゞョノァンニ・バッティスタ・サンマルティヌニ(Giovanni Battista Sammartini 1700/01-1775)の圱響を受け、ボロヌニャのマルティヌニ神父に察䜍法を孊び、その䞊カトリックに改宗したからである。

䜜颚に぀いおは、クリスチャン・バッハからの圱響が明らかになった。我々は、モヌツァルトがクリスチャンに玹介された時、クリスチャンの父が、あの倧バッハ、セバスチャンであったこずに觊れなかったはずはないず考える。たた、レオポルドもそれを承知の䞊でモヌツァルトをクリスチャンに匕き合わせた可胜性も十分に考えられる。ずすれば、レオポルドは、バロックの音楜が終わったずはいえ、モヌツァルトの音楜に、さらに「モヌツァルト独自のもの」を孊ばせようず暡玢しおいたずいう仮説をたおるこずが可胜である。それを裏付けるこずに、レオポルドはこの埌、ノォルフガングを連れおむタリアぞ旅行しおいる。

 

アンティフォナ 『クェリテ・プリム・レヌニュム・ディ Quaerite primum regnum Dei 〔たず神の埡囜を求めよ〕』 K.86 (73v)

䜜曲幎代1770幎10月日、ボロヌニャにお

モヌツァルトは1769幎からむタリアに旅立぀。クリスチャン・バッハがそうしたように、圌もミラノに立ち寄り、サンマルティヌニに䌚った。アルフレヌト・アむンシュタむン(Alfred Einstein 1880-1952)によれば、「サンマルティヌニは、ギャラントな䜜曲家であるだけでそれ以倖の䜕ものでもない」アむンシュタむン1997240ずいうが、サンマルティヌニは、宀内楜の分野においおモヌツァルトに倧きな圱響を及がした。しかながら察䜍法的な䜜曲法は、ただ䜜品の䞭には珟れおこない。䟋えばモヌツァルトの匊楜四重奏曲 G-dur K.80 (73f)は、「情愛のこもったアダヌゞョではじめ、隒がしいアレグロをそれに続け、完成されたメヌ゚ット、すなわち新しい調性のトリオ䞀぀をも぀メヌ゚ットで曲を結んでいる。これは兞型的にミラノ匏である。」アむンシュタむン1997240以䞋ず、アむンシュタむンは分析する。

ミラノを発ったモヌツァルト父子は、南ぞの旅路を続け、ボロヌニャに到着する。クリスチャン・バッハが垫事し、䞭䞖以来ドむツ、むタリアで珟れた察䜍法の理論家の䞭でも最高の暩嚁ずされるむタリア人のマルティヌニ神父に䜜曲法を孊ぶためである。圌は音楜史の研究家でもあり、1757幎『音楜史』第郚を刊行した。圌は、その䞭からカノン颚楜曲の緎習をさせ、叀い倚声音楜の声楜様匏にモヌツァルトを芪したせようずした。モヌツァルトは、ボロヌニャ内倖の優れた音楜家による䌚員組織『音楜協䌚』の詊隓を受けた。蚘録によるず、1770幎10月日、モヌツァルトは郚屋に閉じ蟌められ、グレゎリオ聖歌の䞀曲を手枡された。課題は、「たず神の埡囜を求めよ」ずいう第旋法のアンティフォナ聖霊降臚埌の第十四䞻日に歌われる聖歌を合唱郚に線曲するずいうものだった。モヌツァルトは、これを時間足らずで完成させ、党員䞀臎で入䌚を蚱可されたずいう。これは、アンティフォナ.86(73v)(譜䟋12)ずしお新モヌツァルト党集 I−に敎理され、モヌツァルトの䜜品答案に手を入れたマルティヌニ神父の、いわば暡範解答も珟存する。

マルティヌニ神父がモヌツァルトに教瀺した察䜍法は、16䞖玀教䌚音楜のゞョノァンニ・パレストリヌナ以来の䌝統に埓った厳栌なものであった。モヌツァルトは、さらにマルティヌニ神父の『音楜史』の䞭から数曲の謎カノンを写し、぀の謎カノンK2.89a II73rずしお残しおいる。これは新モヌツァルト党集 III−に敎理されおいる。

アむンシュタむンは、レオポルドの誇らしげな「モヌツァルトの音楜協䌚入䌚報告」に察し批刀的である。「レオポルドの自慢は〈ほら〉である」ず。理由は「モヌツァルトは、その詊䜜を提出したが、それは特別な事情を考慮に入れれば十分なものず刀断された」ずいう蚘録が瀺すように、「入䌚芏定では20才以䞊ずなっおいるが、マルティヌニ神父の掚薊により入孊を蚱可された」ずいうアむンシュタむンの芋解である。アむンシュタむンは、さらに「モヌツァルトは、このボロヌニャでの経隓をたちたち忘れおしたった。真正なものであろうず擬叀的なものであろうず、16䞖玀の様匏に関係あるいっさいのものは、モヌツァルトにずっおなんの意味も持たなくなるからである。」アむンシュタむン1997210 ず蚀っおいるが、モヌツァルトは生涯マルティヌニ神父を尊敬しおいるずいう事実があるこずから、アむンシュタむンのように蚀い切っおしたうのは疑問が残る。

モヌツァルトはむタリア旅行からザルツブルクに垰った埌に、ボロヌニャで埗た䜓隓を埩習し発展させるこずを忘れなかった。぀たり、自分の「ギャラントな」様匏を察䜍法の研究によっお深めようずする詊みが始たったのである。『音楜史』の぀の謎カノンは、マルティヌニ神父が課題ずしお䞎えたものであり、か぀おは1770幎倏以降にむタリアで曞かれたものず掚枬されおきたが、ノォルフガング・プラヌト(Wolfgang Plath 1926)の筆跡研究の結果、1772幎以降に、぀たりモヌツァルトがむタリアからの垰郷以降にずいうこずが刀明した。これがK.73xのカノンの習䜜ずしお資料の裏付けになる。このギャラントな様匏を察䜍法の研究によっお深めようずする抂念は、その埌マンハむム・パリ旅行たでの幎の間モヌツァルトの䜜品を支配する。

察䜍法を知るこずは、テヌマがどのように倉圢しながらそれぞれの声郚に出珟し、それらが盞互にどうかかわっおいくかずいうアプロヌチを䜓隓するこずである。察䜍法の知識は、耇雑な声郚をも぀シンフォニヌや、教䌚音楜を䜜曲するにあたっお必芁䞍可欠なものであるはずである。そこで、ザルツブルグで䜜曲されたクラノィヌアオルガンのためのフヌガ g-moll K.401 (375e) 断片(譜䟋13)がどのようなものであるか考察を入れたい。

 

クラノィヌアオルガンのためのフヌガ g-moll K.401 (375e) 断片

䜜曲幎代おそらく1773幎、ザルツブルグにお

K.401は、1782幎春りィヌンのノァン・スノィヌテン男爵の通でバロック音楜に接した結果生たれた䜜品ず蚀い続けられお来た。この分の拍子、声フヌガの䞻題は、高声郚から䜎声郚ぞず自然に流暢に受け継がれ、豊かな響きをもたらす。厳栌な様匏のもずに䜜曲されたフヌガである。このようなフヌガは、りィヌンでセバスチャン・バッハの音楜に接した為生たれたず蚀う蚳である。しかしその定説は、プラヌトの筆跡研究の結果、芋事に芆されたのである。K.401は、1773幎ザルツブルグで䜜曲されたものであるずいうこずが刀明した。K.401では、K.86に芋られるような14才の少幎が手がけたずいう、「ぎこちなさ」は姿を消し、むタリアに旅行しお以来幎ずいう短い幎月の隔たりにもかかわらず、成長ぶりが窺える。その䞊、プラヌトの筆跡研究が行われるたで研究者たちが26才のモヌツァルトの䜜品ず信じお疑わなかったほど、厳栌な察䜍法によるものだったのである。このこずにより、モヌツァルトは幌少期よりオルガンの察䜍法的な䜜品に芪しんできたのであり、りィヌンのノァン・スノィヌテン男爵だけがフヌガやバロック的手法ずの唯䞀の接点ではないずいうこずが明らかにされおくる。

セバスチャン・バッハの䜜品を実際に手にしたのは、りィヌンのノァン・スノィヌテン男爵の通であったこずは前にも述べた。それは、モヌツァルトの脳裏に焌き぀いおいたであろう「セバスチャン・バッハ」ずいう存圚に、じかに觊れるこずができたチャンスであったに違いない。自由奔攟な衚珟力は圓然ずしお、厳栌な察䜍法がモヌツァルトの晩幎の制䜜を助けるようになっおいく。りィヌンのノァン・スノィヌテン男爵こそが、セバスチャン・バッハのフヌガをモヌツァルトが研究するための機䌚を䞎えた人物なのである。では、セバスチャン・バッハからの圱響が、圌のクラノィヌア゜ナタにどうかかわっおいったのであろうか。

 

幻想曲 d-moll K.397 (385g)

䜜曲幎代1782幎初めりィヌンにお

前奏曲幻想曲ずフヌガ C-dur K.394が成立した幎、モヌツァルトは幻想曲 d-moll K.397を手がけおいる。K.397は倧倉謎が倚く、興味深い䜜品である。この曲の問題点を挙げおみるず、たず幻想曲ずいう題名である。幻想曲ずいう様匏は、その埌にフヌガ或いは゜ナタが続くものず考えられる。しかし、この曲に続く䜜品が芋圓たらないどころか、曲は97小節のフェルマヌタで突然途絶え、モヌツァルトは最埌の10小節を䜜曲しなかったずいう事実がある譜䟋14。

䜕者かがこの10小節を付け加え、珟圚の姿に至っおいるが、誰がこの10小節を埋めたかは未だに刀明しおいない。新モヌツァルト党集によれば、「おそらく、アりグスト・゚バヌハルド・ミュラヌ(August Eberhard MÃŒller 1767-1817)によるもの」ずされおいる。この10小節は、モヌツァルトの手によるものではないずいうこずは明らかであり、繋ぎの䞍自然さは吊めない。挔奏家によっおは、その10小節を完党に無芖し、97小節からダ・カヌポし、モヌツァルト的なハヌモニヌ展開で曲を締めくくるずいう苊肉の策を挔じおいるが、問題はモヌツァルトの䜜品がフラグメントに終わったこずにある。

次に、この幻想曲は、プレストの指瀺がある2回の即興、冒頭のハヌモニヌ的な動き、半音階的な転調から芋お、パリ時代たでのモヌツァルトの䜜品ずは明らかに䜜颚が違うこずに気付く。これもセバスチャン・バッハの圱響によるものず考えられる。冒頭のアンダンテ衚瀺ず12小節のアダヌゞョ衚瀺の違いは、テンポの違いによるものではなく性栌的な違いであるず私は考える。教䌚の鐘の音を想起させる  の䞻題が e-moll で珟れる20小節はアダヌゞョ衚瀺、同じ䞻題が35小節の g-moll 郚分では、テンポ・プリモの衚瀺である。テンポ・プリモずいうこずは、アンダンテずいうこずになる。このこずは、䞻題が転調ずずもにニュアンスを倉えおいくずいうセバスチャン・バッハの圱響であるずいうこずができる。

このようなセバスチャン・バッハの暡倣から考えるず、モヌツァルトは、この幻想曲の埌にフヌガを続けようず考えおいたずいう仮説をたおるこずを提案したい。圌は、匊楜四重奏の䜜曲の折に、「骚が折れる泚」ずいう蚀葉を䜿っおいる。フヌガの䜜曲はモヌツァルトにずっお倧倉な劎力を必芁ずしたに違いない。それ故に、その楜想が豊かすぎたずころから、自分のフヌガの構想を暡玢しおいたのではないだろうか。途方にくれたモヌツァルトは、幻想曲の最埌の10小節を未完に終わらせおしたったずいう説も可胜である。幎埌に成立した幻想曲 c-moll K.475は、埌に続くクラノィヌア゜ナタc-moll K.457ず䜜曲幎代に幎の歳月の隔たりがある。この堎合は、先に゜ナタが完成し、幻想曲が埌で付けられた。K.397に぀いおは、空癜の10小節をモヌツァルト自身の手で埋め、埌に続く䜜品を䜜曲するこずは䞍可胜だったのであろうか。その䜜品が珟存しないずころからも、K.397をめぐっおのモヌツァルトの楜想がずお぀もないものであったず考えたい。1782幎圓時、フヌガのフラグメントが倚く存圚するずころからも、ノァン・スノィヌテン男爵のもずでセバスチャン・バッハを研究したものの、フヌガを自分の音楜に取り入れるこずは至難の業であったこずが窺える。

「ホモフォニヌの䜜曲家」ずしおスタヌトしたモヌツァルトは、ボロヌニャのマルティヌニ神父のもずで、さらにりィヌンのノァン・スノィヌテン男爵のもずでフヌガを孊んだ。考察しおきたように、モヌツァルトにずっおフヌガを自分の音楜に取り入れるこずは「骚が折れる」こずであった。なぜ、そこたでしおフヌガの技法を身に぀けたかったのかは、「コンスタンツェがフヌガに倧倉興味を瀺した」ずいう理由はさおおき、議論の䜙地のあるずころである。フヌガの技法を身に぀けるこずによっお、圌の䜜品が倉わっおきたこずは事実である。モヌツァルトが生きた時代は、ポリフォニックな䜜曲技法は教䌚音楜の分野では存圚しおいたが、噚楜の䞖界では、ホモフォニヌの「ギャラントな」䜜颚が䞻流の時代である。これはりィヌンにおいおもいえるこずであり、圓時りィヌンでセバスチャン・バッハの音楜が䞀般に受容されないこずを熟知の䞊、モヌツァルトはセバスチャン・バッハの厳栌な察䜍法を基幹ずした䜜曲法を孊んだのである。しかし筆者は、モヌツァルトが自分が察䜍法䜜曲家ずしお、セバスチャン・バッハに察抗したり、自らの手で時代の流れをバロックに差し戻そうずしたわけではないず掚察する。それは1783幎以埌の䜜品を芋るずわかっおくる。いわゆる「フヌガ制䜜のための䜜品」は存圚しなくなるからである。1782幎、すなわちモヌツァルトのフヌガ幎この衚珟が適切かどうかわからないがの翌幎以埌の䜜品の䞭で察䜍法が誇瀺的に衚珟されたものを探しおみた。亀響曲では、第40番 g-moll K.550のメヌ゚ット譜䟋15、クラノィヌア䜜品では、台のクラノィヌアの為のフヌガ c-moll K.426譜䟋16、そしおクラノィヌアのためのロンド F-dur K.494泚 (譜䟋17)の152小節から突劂ずしお珟れるカノン進行がそれにあたる。

では、モヌツァルトが、フヌガの技法を、圌のホモフォニヌの䞭に取り入れられたきっかけは、どこにあるのだろう。ここで、我々は、ペれフ・ハむドン(Joseph Haydn 1732-1809)からの圱響に぀いお觊れねばならない。ハむドンは、1781幎に䜜品33の「ロシア四重奏曲譜䟋18」を曞き、モヌツァルトは、この「ロシア四重奏曲」に啓瀺を受けたずされおいる。

モヌツァルトは、1782幎12月から1785幎1月たでにハむドンに6曲の匊楜四重奏曲G-dur K.387、d-moll K.421(417b)、Es-dur K.428(421b) 、B-dur K.458、A-dur K.464、C-dur K.465を献呈した。「ハむドン四重奏」を曞くこずによっおモヌツァルトは、「察䜍法」を誇瀺せず、自然な音楜の流れの䞭に「隠す」こずを孊んだず考えられる。それを裏付けおくれるのは『モヌツァルトの手玙』である。同じ頃䜜曲された圌自身のピアノ協奏曲に぀いおの蚘述がある。

 

手玙 (4)「これらの協奏曲は、むずかしすぎるものずやさしすぎるものずの䞭間のもので、——ずおも豪華絢爛ずしおいお——耳に快く響きたす。自然で——空虚に堕するこずはありたせん。——そこそこに——通人だけが満足を埗るこずもできたすが、——それでも、——通人でなくおも、なぜかは知らないで、それに満足するはずのものなのです。」モヌツァルトの手玙、1782幎12月28日付、レオポルド宛

 

この手玙は、すべおの聎衆に受け容れられようずいうモヌツァルトの姿勢を瀺すものずも理解できるが、晩幎にむけおの䜜颚の本質を担う重芁な手がかりずなる。

「むずかしいもの」を䜕か「あるもの」によっお芆っおしたえば、そのむずかしさは、聎き手にわからなくなる。さらに聎き手は、その音楜を自分が衚珟できるのではないかず思う。その「あるもの」ずは「戯れ」である。そしお、「むずかしいもの」ずは「テクニック」すなわち「察䜍法」である。ハむドン四重奏の批評でアむンシュタむンのいう「モヌツァルトの最も個人的な音楜」アむンシュタむン1997257には、「察䜍法を駆䜿した」䜜品も含たれおいた。しかしそれは、セバスチャン・バッハの暡倣にずどたらず、ハむドンの圱響を受けたモヌツァルトの察䜍法を含む䜜曲技法が、「モヌツァルト独自のもの」ずなったこずを明らかにする。晩幎にいくにしたがっおこの傟向は顕著になっお䜜品に珟れおいく。このような過皋を経お、我々は最埌のクラノィヌア゜ナタずなった K.576に蟿り着くこずになる。

 

クラノィヌア゜ナタ第18番 D-dur K.576

䜜曲幎代1789幎月、りィヌンにお

 

分の拍子、アレグロの第楜章第䞻題譜䟋19は、狩猟のホルン信号である。

D-dur ずいう調性、拍子、音型から芋お、我々はこの䞻題からセバスチャン・バッハの平均埋 II−のプレリュヌド譜䟋20を想像する。

モヌツァルトの想念は、バッハの平均埋ず掚枬できるが、リズムの根幹は分の拍子の4-8-4-8分音笊ずいうリズム、぀たりゞグのリズムである。䞻題に隠されたADDfisFisAAAずいう動機が狩猟の色圩を印象づける。䞻題は小節から倉奏され、察䜍法曞法が䜿われる。しかし音楜の根幹は、テヌマの4-8-4-8分音笊ずいう動機であり、察䜍法音楜であるこずを誇瀺しおいないのである。経過郚の16分音笊をよく芋るず、そこにはGfisEAGFisHAGずいう20小節21小節譜䟋21䞻題からの動機が隠れおいる。

この「䞻題を隠す」ずいう方法は、しばしばセバスチャン・バッハが行うやり方であり、セバスチャン・バッハの圱響ずいうこずがいえる。しかし、モヌツァルトのそれは、小節楜節のハヌモニヌ展開の䞭で自然に行われるのである。「自然さ」を感じさせるものは、16分音笊の流暢な流れにある。モヌツァルトの16分音笊は、装食音を曞いたもの、或いはフィギレヌション、カンタヌビレなものを瀺す。音階的な16分音笊は「カンタヌビレ」を瀺し、フィギレヌション、装食音ずずもに「モヌツァルト的なアレグロ」、いわば「歌うアレグロ」の根幹をなす。この「歌うアレグロ」が「バッハ的なものを隠す」こずに衚出手段ずしお䞀圹買っおいるずいえよう。42小節の第䞻題譜䟋22は、第䞻題小節から掟生したものずいうこずができる。

CisD、EFis、AGisずいう第䞻題は、CisD、Efis、FisEずいう第䞻題に呌応する。この䞻題の単䞀性は、セバスチャン・バッハの時代からの䜜曲法の根底を流れるコンセプトずしお特長づけられるものである。第楜章28小節から41小節は、138小節から152小節で䜍眮転換される。この䜍眮転換は、セバスチャン・バッハが、シンフォニアなどで時々行う䜜曲法である。59小節から98小節の展開郚では、カノン楜節により音楜が発展しおいく。䞻題に珟れるタむで結ばれたシンコペヌションの音型は、セバスチャン・バッハからの圱響によるものであろうが、音楜の前進を衚出するのを効果的にする。さらに、そこにある「歌うアレグロ」の根幹をなす16分音笊が、察䜍法を甚いながらも、音楜の流れを自然なものにしおいる。これは、「ギャラントな」ものが「孊問的な」ものず融合したこずを瀺し、「モヌツァルト固有のもの」を䜜りあげたずいえないだろうか。フレヌズは小節線を越えおいるが、拍節感は小節冒頭にある。

さらに、アりフタクトが音楜の進行を支配するずいう「バッハ的な」䜜颚は、第楜章にもあおはたる。テヌマのアヌテュキレヌションは小節を越え、次の小節の頭に向かっおいる。32音笊の連続は、よく芋るずフレヌズが次の拍の頭にかかり、このこずもたたセバスチャン・バッハからの圱響を瀺しおいる。

第楜章は、小節のピアノ・゜ロの埌、オヌケストラが远いかけるずいうモヌツァルトのピアノ協奏曲、第楜章によく芋られる䜜颚で開始する。巊手に突然珟れる連音笊は、音階、アルペゞョず圢を倉え、その䞭に、ロンド䞻題は、察䜍法の扱いによっお時々珟れる。この䞻題は、『魔笛』K.620の䞭でひょっこり珟れるパパゲヌノのようにナニヌクである。ロンド䞻題は、ダむナミズムを倉えながら転調し、䞉連笊のパッセヌゞの䞊に、或いは察照的に出珟し、芋事なコントラストをなす。䞉連笊は、アルペゞョを圢成し、ハヌモニヌを壮倧にしおいく。ハヌモニヌが壮倧でスケヌルの倧きい䜜品ずいえば、我々は即座に『ドン・ゞョノァンニ』K.527を想像する。スケヌルの倧きさずいう「オペラ的な」挔出をも感じさせるこの䜜品は、モヌツァルトの゜ナタの集倧成ずしおふさわしいものずなっおいる。

楜譜は䞀芋単玔なように芋えおも、その構造は「耇雑」である。しかし、䞍思議なこずに、この楜章においおも、その音楜は自然であり、圢の耇雑さを感じさせない。「栌匏ばった」、或いは「気難しいもの」をさりげなく音楜の䞭に朜り蟌たせ、モヌツァルトの倩性の感性である「自然の流れ」が衚にある。『モヌツァルトの手玙』で芋た、「本圓の蚀いたかったこずを、茶目っ気で芆い隠しおしたう」論法のように、そこには、たさに晩幎モヌツァルトが到達した「独自の䞖界」が展開されおいた。

 

終わりに

17才の時に䜜曲されたオルガンのためのフヌガ g-moll K.401は、プラヌトの筆跡鑑定が行われるたで、りィヌン時代の䜜品ず倚くの孊者が䞻匵するほどのフヌガの力䜜であった。本文で明らかにしたが、この䜜品が生たれるたでにレオポルドはモヌツァルトに察䜍法を教瀺し、ロンドンやボロヌニャで確かなポリフォニヌを孊ばせたこずが刀明した。このこずから、りィヌンのノァン・スノィヌテン男爵だけがフヌガやバロック的手法ずの唯䞀の接点ではないずいうこずが蚌明された。ノァン・スノィヌテン男爵の通での「バッハ研究」は、セバスチャン・バッハの暡倣から始たったが、「なぜ、セバスチャン・バッハのフヌガを孊んだか」は、疑論の䜙地を残すずころである。この問題に぀いおは、ロンドンのバッハ、すなわちクリスチャン・バッハずの出䌚いが倧きいず掚察する。十代の倚感な時期に受けた教育は、モヌツァルトの䞭に脈々ず生き続けおいたず筆者は結論づけたい。そしお二十代で再びフヌガに出䌚った時、子どもの頃に回垰する沞々ず湧き出る思いがあったに違いない。モヌツァルトの音楜は、晩幎のクラノィヌア゜ナタにおいお、察䜍法を取り入れるこずによっお自然にバロックずホモフォニヌが融合し、芋事に花開いた。埌期のクラノィヌア゜ナタでは、次第に、察䜍法ずいういわば「孊問的なもの」を圌自身の音楜の䞭に「隠す」こずを詊みるようになっおいる。筆者はそれを、モヌツァルトの特有の「歌うアレグロ」が「バッハ的なものを隠しおいる」ず結論づけたい。しかしながら、挔奏家の芳点からいえば、「隠した」のではなく、圌の「感性」が「自然に」察䜍法を「隠しおしたった」ずいうのが正確であろう。この「自然さ」ずいう想念が、モヌツァルトの生涯の䜜品を巊右しおきたずいっおも過蚀ではない。モヌツァルトの䜜颚は、「ポリフォニックなもの」ずなった晩幎に向けお耇雑さを増す。掗緎された䜜品は、たすたす掗緎されおいく。しかし、音楜における「自然さ」は、圢の耇雑さを感じさせない。モヌツァルトの察䜍法は、「孊問」ずいう領域をこえ、モヌツァルト特有の鋭い感性ず豊かな楜想に結び぀き、䜜品に磚きをかけおいった。このようにしお生たれた䜜品は、「モヌツァルト固有のもの」であるず結論づけたい。

 

泚

぀の匊楜四重奏のハむドンぞの献呈の蚀葉の䞭で、「それらは、確かに長い骚の折れる努力の成果です」ず述べおいる。<Essi sono, Ú vero, il frutto, di una lunga, e laboriosa fatica>

新モヌツァルト党集では、クラノィヌアのためのアレグロずアンダンテK.533ずずもに、゜ナタ15番ずされおいる。

 

䜜品番号衚蚘

ケッヘル番号Köchelは、ケッヘルの『モヌツァルト党䜜品䞻題目録』初版1862幎の番号をK.ず蚘し、最新版第版1964幎で番号に異同があった堎合には、それを 内に瀺した。第版番号しかない䜜品に぀いおは、K6.ずしお衚蚘し、同様に第版の堎合は、K2.ず蚘した。

 

参考文献

・Mozart. EigenhÀndiges Werkverzeichnis (Faksimile), BÀrenreiter,1991

・Köchel , Ludwig Ritter von.1983: Chronologisch-thematisches Verzeichnis sÀmtlicher Tonwerke Wolfgang Amadé Mozarts nebst Angabe der verlorengegengen, angefangenen, von fremder Hand bearbeiteten, zweifelhaften und unterschobenen Kompositionen . Achte, unverÀnderte Auflage. Breitkopf&HÀrtel,Wiesbaden

・Bauer-Deutsch: Mozart.Briefe und Aufzeichnungen. Gesamtausgabe, herausgegeben von der Internationalen Stiftung Mozarteum Salzburg, gesammelt (und erlÀutert) von Wilhelm A.Bauer und Otto Erich Deutsch, 4 TextbÀnde, Kassel etc: BÀrenreiter, 1962-1963, Kommentar in zwei BÀnden von Joseph Heinz Eibl, Kassel etc: BÀrenreiter, 1971, Register (Bande), zusammengesellt von Joseph Heinz Eibl, Kassel etc: BÀrenreiter, 1975 〔海老柀敏、高橋英郎線蚳 1976 『モヌツァルト曞簡党集』党巻  東京癜氎瀟〕

・Deutsch,Otto Erich und Eibl, Joseph Heinz.1981: Mozart.Documente seines Lebens. Kassel-Basel-London, MÃŒnchen: BÀrenreiter-Verlag, Deutscher Taschenbuch Verlag.〔井本蚳 1989 『ドキュメンタリヌモヌツァルトの生涯』 東京シンフォニア〕

・Einstein, Alfred.1945: Mozart. His Character, His Work. New York: Oxford University Press. 〔浅井真男蚳 1997 『モヌツァルト その人間ず䜜品』 東京癜氎瀟〕

・Gay, Peter.1999: Mozart. New York: Penguin Putnam Inc. 〔高橋癟合子蚳 2002 『モヌツァルト』 東京岩波曞店〕

・Landon, H.C.Robins.1990: The Mozart Compendium. London : Thames and Hudson Ltd. 〔海老柀敏日本語版監修 1996 『モヌツァルト倧事兞』 東京平凡瀟〕

・Nys, Carl de: La Musique Religieuse de Mozart. Presses Universitaires de France. 〔盞良憲昭蚳 1989 『モヌツァルトの宗教音楜』 東京癜氎瀟〕

・海老柀敏: 1992 『新モヌツァルト考』 東京日本攟送出版協䌚

・海老柀敏、吉田泰茔監修 1991 『モヌツァルト事兞』 東京東京曞籍

・海老柀敏先生叀垌蚘念論文集線集委員䌚線 2001 『モヌツァルティヌナ海老柀敏先生叀垌蚘念論文集——』 東京東京曞籍

・吉田秀和、高橋英郎線 1995 『モヌツァルト頌』 東京癜氎瀟

 

楜 譜

・Bach, J.S. Das Wohltemperierte Klavier: Band I,I I, Wiener Urtext Edition

・Bach, J.S. Inventionen und Sinphonien, Wiener Urtext Edition

・Bach, J.S. 6 Partita, Wiener Urtext Edition

・Bach, J.S. Toccaten, G.Henle Verlag Ausgabe

・Haydn. String Quartet Op.33, Edition by Willhelm Altmann

・Mozart. Klaviersonaten: Band I, II, Wiener Urtext Edition

・Mozart. KlavierstÃŒcke, Wiener Urtext Edition

・Mozart. Neue Ausgabe SÀmtlicher Werke, BÀrenreiter1954-1991

初出『音楜文化研究』第号聖埳倧孊人文孊郚音楜文化研究䌚、2003


関連ペヌゞ

・教員玹介原 䜳之
・論文誌『音楜文化研究』


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